『虎に翼』寅子のモデル・嘉子は裁判官になれずに嘱託採用され…「家制度」を廃し、個人の自立を進める改正・立法作業が人生に強い影響を
◆嘉子の基礎になった最高裁判所での仕事 1948年1月、嘉子は発足したばかりの最高裁判所の事務局(現在の事務総局)民事部に移ります。 関根小郷・内藤頼博など、親切な上司・先輩たちからの様々な教えを受け、「裁判官としてどのような心構えで裁判をすべきか」ということはこの時代に培われたと、後に嘉子は語っています。 さらに、1949年1月、全国に家庭裁判所ができると(家庭裁判所は、先に述べた家事審判所と、戦前から存在し司法省が管轄していた少年審判所とを統合して、全国49箇所<地方裁判所の数と同じ>に置かれたものです)、最高裁判所の中に、家庭裁判所の設立に尽力した宇田川潤四郎を局長とした家庭局ができ、嘉子はそこに所属することになりました。 嘉子はここで、親族法・相続法・家事審判関係の法律問題や司法行政上の事務などと向き合う日々を送っていきます。 この時代の仕事を通して得た知識や経験もまた、後に家庭裁判所の発展に邁進することになる、嘉子の基礎となりました。 この時代、『主婦と生活』や『婦人倶楽部』といった雑誌に、家族法関係の簡単な解説(遺産の分け方、親権を失う場合など)を書いたり、インタビューに答えたりもするようになります。 新しい法律、新しい制度を市民に啓蒙する役割を、積極的に担っていこうとしていた様子がうかがえます。
◆リンゴの唄 この頃の嘉子は、いつも大きな風呂敷包みを持って通勤していました。 食料のない時代でしたが、仕事で遅くなった時には、同僚たちとスルメやコロッケなどを肴に焼酎を飲んで語り合うようなこともあったようです。 また、嘉子は歌を歌うのが好きで、職場の懇親会の余興では、よく「リンゴの唄」を歌っていたといいます(「リンゴの唄」は、サトウハチローの作詞、万城目正の作曲で、1945年に映画「そよかぜ」<松竹大船>の主題歌・挿入歌として並木路子が歌い大ヒットしました。「赤いリンゴに…」で始まる歌詞や、のびやかで明るい並木の歌声は、敗戦後の厳しい時代を生きる人々に希望を与えました)。 嘉子がにこやかに歌うと、まるで本当の赤いリンゴが歌っているかのような雰囲気だったそうで、皆が自然と唱和するような盛り上がりがありました。 嘉子に大きな影響を与えた父貞雄が1947年10月に肝硬変で亡くなるなど、この時期にも不幸がありましたが、幼い長男の芳武を抱えた嘉子は、強くたくましく新しい時代を生き抜こうとしていました。 ※本稿は、『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。
神野潔