ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (32) 外山脩
胎動期
さて、邦人の植民事業に関する話となると、必ず名前を上げられるのが、上塚周平と平野運平である。もっとも、そういうとらえ方が適切かどうかは疑問だが……。 それについては改めて考えるとして、その植民事業の歴史を、年を追いつつ概観してみる。 歴史といっても、数年は胎動期が続いた。例えば前章で触れたリオ州マカエでの隈部一家の失敗談がある。次いで上塚の徒労に終わった試みがあった。 上塚は一八七六(明9)年の生れで、熊本県人である。幼い頃から変り者で、子守に背負われて、夕暮れの空に輝き始める星を見つけると「アレを取ってくれ」とせがみ、それを毎日続け、子守を困らせた。 この坊や、やがて小学校、中学校……と進んだが、机の上で文字や数字をいじることは器用だったようで、東京帝大に入った。が、学資が不足、郷里の友人で鳥飼安一という篤志家から援助を受けた。それでいながら、卒業まで七年もかけるという厚かましさだった。 七年もかかったのは、受講には殆ど行かず、いわゆる憂国慨世の士と交わっていたからである。 卒業後、選んだ道が海外雄飛で、目標を「日本外に、新日本を建設する」と定めた。その気組たるや勇にして壮である。 上塚は、その志を実行すべく、人の紹介で皇国殖民会社に入り、笠戸丸に乗り込んだ。 ブラジル到着後は、前章に記した通りである。 日本の本社は潰れ、仕送りは途絶えてしまった。窮して貧民街に、穢く小さな家を借りて住んだ。が、居候も常に何人か居た。生活費に窮し、時には無意識に路傍に落ちている煙草の吸い殻を拾って口にくわえ、ハッとする……という体たらくであった。 その揚句、奇抜なことを始めた。 何処からか、トタン板と竹を失敬してきて、玩具の竹とんぼをつくり、それを何十と腰にぶら下げて、街を子供相手に売り歩いたのである。帝大出の学士様が……である。 もともと体裁を一切構わぬ性格で、死ぬまでそうであった。 竹とんぼの方はよく売れた。そこで、ほかにも色々な玩具を作った。それを居候たちが手伝った。販路は遠隔地まで伸びた……というから小事業化の可能性もあったことになる。が、上塚は利益を路頭に迷う移民、失業中の通訳たちのため、気前よく散じてしまった。 おもちゃ屋になるつもりは無かった。期するところは「日本外の新日本建設」であった。 その頃、上塚は植民地建設の適地を探して、時々旅をしている。パラナ州を訪れたこともある。その時は知事に会い「州有地七千㌶を無償で提供するから、開発しないか」という誘いを受けた。コンセッソンである。 知事は「承知なら、取り敢えず土地の周囲に、柵用のワイヤーを張ってくれ」という。上塚は『移民たちが渇望する植民地を建設することが出来る」と歓喜した。 早速、サンパウロへ戻って金策したものの、成果はゼロだった。嘆声を上げて悔しがったというが、その植民地建設の試みは、これで当分止むことになる。 一九一〇年……つまり笠戸丸から二年後の五月のことであった。 翌六月、第二回移民を乗せた旅順丸がサントスに着き、上塚は、これを送り出した竹村殖民商館の代理人となった。 その第二回移民では既述の様にファゼンダ・ジャタイで騒動が起きているが、渦中に馬見塚竹造という福岡県人が居た。この馬見塚の一家が騒動後、ファゼンダを出て、サンパウロの郊外(北西部)タイパス山麓で借地してバタチーニャ(小粒の馬鈴薯)の栽培を始めた。 収穫したバタチーニャは、市場での値が良かった。一家の周囲には、邦人たちが集まってきて小さな入植地となった。 翌一九一一年。リオ州のセントラル線イグアスー駅の近くの湿地帯に、邦人の若者六人が現れ、米作りを始めた。が、内一人が病死、企ては放棄された。 彼らが居ったのは、住民五十戸に足らぬ集落であった。そこに初老の産婆がおり「自分の夫は日本人であった」と、金蒔絵松竹梅の重箱をとりだして見せた。三十歳近い娘もいた。その娘が生まれた頃、この国に居った日本人は数人でしかない(一章参照)。父親は、その内の誰かだったのか、あるいは別の日本人がいたのか……。 同年。サンパウロの市街地の西の外れサンターナという所で旅順丸移民、山口県人の上利山三郎ら七家族が土地を購入、蔬菜づくりを始めた。ここにも集落ができた。