「痛い足つぼ」なぜ日本に広まった?ドクターフット代表が語る“知名度ゼロ”からの逆転劇
現在、都内に4店舗を展開するフットケアの専門店『ドクターフット』代表の鈴木雅喜氏。テレビやYouTubeなどの激痛足つぼ施術で目にすることも多い鈴木氏は、「足つぼ」を活用したフットケアの先駆者としても知られる。今年で開業30周年を迎える鈴木氏に、日本で足つぼが広まっていく過程や、実際の効果について聞いてみた。 ⇒【写真】記者も悶絶
台湾で足つぼの凄さを実感。11年かけて技術を習得
鈴木氏と足つぼの出会いは1982年、21歳の頃だったという。 「当時、貿易の仕事で台湾で働いていた際に体調を崩して倒れてしまい、しばらく入院生活を送っていました。入院中に受けた現地の足つぼの施術でみるみる体調が回復し、『こんなに良いものなら自分も習得したい』と思ったのが足つぼの道を志したきっかけです」 鈴木氏は退院後、現地の学校で技術を学び、台湾の足つぼの専門店で働きながらその腕を磨いた。 「台湾は足つぼの技術が学べる学校が日本よりもはるかに多いですし、足つぼ専門店はもちろん、普通のマッサージ店にもだいたい足つぼコースがある。そんな土地で学べたのはよかったですね」 鈴木氏はおよそ11年、台湾で足つぼの技術を学んだ後に日本に帰国。沖縄の国際通り近くで足つぼの店舗を開業する。 「1994年頃の日本では足つぼのリフレクソロジーの知名度はないに等しく、『ここは何のお店ですか?』と聞かれることも日常茶飯事。馴染みがなさすぎたからか、オープンして1年は赤字が続き、地獄のような日々でした」
窮地を救ったのは客室乗務員だった
しかし、沖縄の国際通りという立地が功を奏し、黒字転換に成功する。 「フライトで沖縄に来ることが多いCAさんたちの間で広まったんです。立ち仕事で疲れの溜まっているCAさんは、足つぼをフライトの間のリフレッシュとして重宝してくれました。施術を受けた方の口コミがどんどん広まって、リピーターが増えていきました」 そして1996年に東京・浜松町にドクターフットの1号店を開店。ただ、こちらも最初の1年は赤字だったという。 「浜松町を選んだのは、当時は羽田空港へのアクセスがモノレールしかなく、沖縄と同じくCAさんを掴みたかったから。ただ、足つぼの知名度はまだまだ低かったので新規のお客さんはほぼゼロ。沖縄の時の常連CAさんに来てもらうことで食いつなぐ、苦しい状態でした」