「『わかる人にだけわかればいい』は違う」――希代のトリックスターが基本に立ち返って開けた新しい世界
早くから頭角を現した同期たちは「平場(ひらば)」でも面白かった。平場とは、ネタ以外の普段の何げないトークなどのこと。芸人としての実力が問われるポイントでもある。彼らは博識で、どんな平場でも抜群の輝きを見せた。やがて、テレビで見る売れっ子の先輩たちに目をかけられ、どんどん露出を増やしていった。 「最初は同格だと思っていたけど、違いましたね。彼らのような天才と戦い続けても勝ち目はないと思いました」 仕事も売れる気配もなく、みじめな扱いに耐えかねた青年は25歳で大阪から逃げ出した。
初めて売れたいと思った
次に目指したのは東京だった。大阪は漫才に代表される正統派スタイルが歓迎される街。東京のように多様性を受け入れてくれる街に救いを求めたともいえる。 相方の廃業にともないピン芸人として再出発したザコシだが、結果を残せず事務所を転々とする。最後にたどり着いたSMA(ソニー・ミュージックアーティスツ)はお笑い部門を立ち上げたばかりで、芸人であれば誰でも迎え入れていた。そのため、事務所に見放された芸人たちが続々と集まり、一部では「芸人の墓場」と陰口をたたかれていた。 ピン芸人として活動して5年。ブレることなく芸風を貫いたザコシは、ついに深夜番組でスポットライトを浴びる。TBS「あらびき団」は東野幸治と藤井隆がMCを務めた伝説的番組で、一般ウケしない粗削りな芸を持ったパフォーマーを紹介する、カルト的人気を誇ったネタ番組だった。ここで高い評価を得ると、一気にテレビ出演が増加。ようやく花開いたかに見えたが、芸人として最も大きな転機はその数年後だと振り返る。 「後輩のバイきんぐがキングオブコント(KOC)で優勝をしたんです」 当時のザコシは、事務所の中でも数少ないテレビに継続的に出ている芸人の一人だった。露出は主に深夜番組が中心で、爆発的な知名度や稼ぎを手に入れたわけではないが、街を歩いていると通りすがりの人に指をさされることも多く、それに満足している自分がいたという。 「僕は売れることに執着してなくて、面白いことができればいいと思っていた。でも、小峠と西村は心から売れたいと思っていたんだと思います」 賞レースでタイトルを獲得したバイきんぐは、メジャーの階段をどんどん駆け上がっていったが、ザコシはその背中を見つめることしかできなかった。同じ釜の飯を食ってきた仲間であり、弟子のように可愛がっていた後輩に抜かされたことはショックだった。 「初めて、売れたいと思いました」 だが、芸風を変えてまで視聴者に媚びるのは違うと思った。どうしたらメジャーに訴求できるかの試行錯誤が始まった。