韓国の外国人家事労働のコスト削減を論ずる前に【寄稿】
リュ・ヨンジェ|議政府地方裁判所南楊州支院判事
ケア労働を最初に認識する契機となったのは、映画「ヘルプ」と先輩の吐露した苦悩だった。「ヘルプ」は1960年代の米国南部の黒人家政婦のことを扱っている。奴隷制度は消えたものの差別は依然として深刻だった時代を扱うことで、ケアを担い、労働者であり、かつ二等市民の地位にある黒人女性たちの不合理な人生を描き出した映画だ。印象深かったのは、白人主婦による、疑うことのない差別の天真らん漫さだ。自分を育て、子どもの世話をする黒人家政婦を汚い病原菌のように見つめる視線には、迷いも疑問もなかった。育ってきた過程で深く依存してきたであろう存在を汚いと感じるためには、どれほど深刻な認知的解離が生じなければならないのだろうか。 気になっていたところ、先輩の悩みは、意外とその認知の不調和が簡単に起きうることを教えてくれた。先輩は、子どもが親や先生に接する時とは異なり、「おばさん」の言うことはしばしば無視したり、無理なことを要求したりし、機嫌が悪ければ怒りをあらわにすることもためらわないと言った。「自分を世話するために雇われた人」だとの認識が強いからではないかと心配するのを聞いて、人を特定の地位や階級などとして認識すると差別、嫌悪、無礼が容易になりうる、ということに気づいた。特に深い自我の分裂が起きていなくても。 次に、ケア労働は自分の問題となった。ケア労働者たちが法廷に立ったのだ。彼らは主にケアの対象者を精神的、肉体的に虐待したことで裁かれた。最初はケアの対象者の苦痛に目が行った。職業的ケアは主に弱い人々(高齢者、患者、障害者、児童など)が対象となるため、ケアする人とケアを受ける人との間に身体的、精神的な位階秩序ができやすいが、ケアが労働に置き換えられた瞬間、その位階秩序は虐待へとつながる高速道路になりがちだ。ケアの対象者を暴言や暴力で制圧したり、特定の行動様式を不合理に強制したりすればするほど、ケア労働の強度は低下するが、ケアの対象者が弱いものだから、そのようなやり方で労働の強度を低くすることが可能になるというわけだ。その過程でのケア対象者の苦しみは虐待行為の水準より強くならざるをえないが、それもケアの持つ性質のためだ。ケアはすなわち生活であるため、ケアでの虐待は反復的にならざるを得ないし、ケア対象者が「労働の対象」に置き換えられる過程は必然的にケア対象者に対する侮辱を伴う。 最近は、ケア労働者が直面している限界的状況に目が行くようになった。ケアの過程での虐待は、段階的に深刻になるケースがほとんどだ。最初からケア対象者を裁判に持ち込まれるほど虐待するというより、劣悪なケア労働環境の下で孤軍奮闘しているうちに、労働強度を弱めるために少しずつ威圧的で暴力的で非人間的な手段を使うようになるか、特に世話が難しい対象に出会い、耐えているうちに怒りが爆発するケースが多い。虐待が次第に強まっていく間に、ケア労働者が補助人材の補充、ケア労働の強度の緩和などの、自身による虐待を防止する構造的支援を受けられていなかった、という共通点も見える。ケアにおける虐待の悲劇は、ケア対象者とケア労働者のいずれもが人間性を喪失する過程に置かれることにあるのかもしれない。 ケアは雇用関係に則った労働である、と単純に定義することはできない。ケアは人と人とが関係を形成し、共に生きていく過程であるため、ケア労働者とケア対象者は互いに対象化されることなく、「人」として尊重されなければならない。これこそケア労働の肝だ。ケア労働者を差別、嫌悪の視線、劣悪な労働環境にさらしたままにしておくと、彼らのケアには怒りと無念が反映され、ケア対象者は労働対象へと置き換わる。ケアにおける虐待はケア対象者に致命的な苦痛を与えるため、ケアが虐待へと変質する条件をそっくり残したまま、雇用関係について回る抑圧や監視と事後的な処罰でそれを抑えることは根本的な解決策とはなりえない。一方、ケア対象者がケア労働者を差別と嫌悪の視線で見つめることは、それそのものが不幸な認知の不調和であり、ひいては韓国社会に差別の感覚を拡散させるだろう。どちらも韓国社会が放置してはならないものだ。 先日、ソウル市の外国人家事管理士モデル事業が開始され、100人のフィリピン人労働者が入国した。彼らを最低賃金の適用から除外してコストを下げようという議論が盛んだ。それをケア労働全般へと拡大しよう、とも提案されている。議論の前に、誰もがケアの性質について真剣に考えてみるべきだ。 リュ・ヨンジェ|議政府地方裁判所南楊州支院判事 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )