映画『ボストン1947』──朝鮮半島出身のマラソン選手と指導者たち、彼らは何のために走るのか
舞台は1947年のボストンマラソン。「祖国」への想いを胸に、朝鮮半島出身のマラソン選手とその指導者が挑んだ命がけのレースを、実話をもとに描く。監督は『シュリ』、『ブラザーフッド』などのカン・ジェギュ。主演を務めるのは、『チェイサー』、『お嬢さん』などで知られるハ・ジョンウだ。 【写真を見る】『チェイサー』、『お嬢さん』でお馴染みのトップ俳優ハ・ジョンウが出演する『ボストン1947』をチェックする
オリンピック男子マラソンで、日本が獲得した金メダルの真実
日本はこれまで数多くの有名マラソンランナーを生み出してきたが、オリンピックの男子マラソンで日本代表選手が金メダルを取ったのは、これまでのところ1度だけである。それは1936年のベルリン大会、日本占領下にあった朝鮮の選手、ソン・ギジョン(孫基禎)によるものだった。彼はそのとき、日本語読みである「ソン・キテイ」の名で走らねばならず、IOC(国際オリンピック委員会)の公式記録では、2024年8月現在、いまだ日本人選手として記録されている。 ソン・ギジョンについてはいくらか読んだことがあったのだが、彼がそののち指導者となり、優れた選手を育てていたことは、筆者は寡聞にして知らずにいた。この映画はソン・ギジョンと、彼が育てたなかで最初に偉業を成し遂げたランナー、ソ・ユンボク(徐潤福)とのドラマを中心に展開される。歴史映画である以上に、正統派のスポーツ映画として爽快な後味を残す作品だ。 ■カン・ジェギュ監督×ハ・ジョンウ ソン・ギジョンを演じるのは、『チェイサー』(2008)、『お嬢さん』(2016)、『1987、ある闘いの真実』(2017)などで知られるトップ俳優、ハ・ジョンウ。ソ・ユンボクを演じるのは、『非常宣言』(2022)で難役を演じたことも記憶に新しいイム・シワン。『ストーブリーグ』(2019)などのドラマシリーズで主に活躍し、『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』(2022)で世界的人気者となったパク・ウンビンが、ユンボクに思いを寄せる食堂の看板娘役で特別出演している。 ■『ボストン1947』のあらすじ 物語の始まりは1946年。ソン・ギジョンは酒びたりで荒れた生活を送っている。彼はベルリンの表彰台で、胸の日章旗を月桂樹で隠したのが問題視され、引退を強いられていた。そこへ、ベルリン大会のマラソンで銅メダルを受賞し、現在は若手育成にあたっている友人、ナム・スンニョン(南昇竜、演じるのはぺ・ソンウ)が訪ねてくる。ボストンマラソンへの韓国選手の出場権を得るため、ギジョンの協力を求めてきたのだ。旧知の仲である米国人選手ジョン・ケリー(ちなみにこの人はオリンピックに2度出場し、ボストンマラソンをなんと61回も走ったというレジェンドである)にギジョンが手紙を書き、招請状が無事届くが、監督をギジョンが務めることが条件になっていた。 ギジョンに監督の座を譲ったスンニョンは、みずからも出場を目指してトレーニングを始める。長距離走の突出した才能を持つ若者、ソ・ユンボクが強化対象に加わる。ユンボクとギジョンはしばしば衝突するが、やがて和解し、記録も順調に伸びていく。しかし誰がボストンへの渡航費を、滞在費を出すのか? さらに韓国は「難民国」扱いであるため、米国に入るには現地での保証人と保証金が必要だという事実も発覚する。四方八方策をめぐらしてこれらを解決し、ようやくボストンにたどり着いたギジョンとユンボク、スンニョンだったが、そこでは、これまで以上の難題が待ち受けていた──! ■複雑な歴史をさわやかに仕上げたスポーツ映画 監督は『シュリ』(1999)のカン・ジェギュ。この物語は特定の人物や集団を悪役としているのではなく、「時代自体が、最大の障害で悪役」なのだと述べている。実際、米軍支配下で独立政府も持てず、先の見えない状況のなか、尊厳を求めて困難に立ち向かいつづけるギジョンたちの姿は、国を超えて普遍的な共感を呼ぶだろう。 その普遍的な共感をさらに後押しするのが、先に述べた「正統派のスポーツ映画」としての性格である。ここには、絶望から再起するかつての名選手、名選手に対する若者の憧れと葛藤、葛藤を乗り越えてふたりが結ぶ絆、チーム一丸となってのプライドをかけた大勝負という、スポーツ物に定番の要素がずらりとそろっている。 ■圧巻のマラソンシーン そして特筆すべきは、ナム・スンニョンを演じるぺ・ソンウも、ソ・ユンボクを演じるイム・シワンも、一流マラソンランナーとして遜色ない、見事なフォームでの走りを見せることだ。オリンピック出場を経験したアスリートたちが指導にあたったという彼らの走りは、観る者の没入感をがぜん高めてくれる。とりわけ、15分間にわたるボストンマラソンのレースシーンで、いわゆる「心臓破りの丘」を、イム・シワンが力強く駆け上がる姿には胸を熱くせずにはいられない。 実をいえばこの映画のプロットには、ドラマ性を高めるために、史実と異なる脚色がされている箇所がいくつかある。とはいえやはり、歴史物としてのディテールは大切にされている。ボストンへ向かう空の旅の長さ、籐椅子が並ぶ珍しい機内風景、マラソンの中継車の様子など目に楽しい。ボストンマラソンのコースも見どころだ。実はこのコース風景も、韓国国内の風景も、再現にはVFXが駆使されているらしいのだが、VFXにありがちな閉塞感がなく、空間の抜けが表現されているのも、映画の爽快感につながっていてとてもよい。ボストンの空の下、歴史ある街並みを駆け抜けた先には、史実どおりの感動が待っている。 ■『ボストン1947』 8月30日(金)より新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開 配給: ショウゲート 著者プロフィール:篠儀直子(しのぎ なおこ) 翻訳者。映画批評も手がける。翻訳書は『フレッド・アステア自伝』『エドワード・ヤン』(以上青土社)『ウェス・アンダーソンの世界 グランド・ブダペスト・ホテル』(DU BOOKS)『SF映画のタイポグラフィとデザイン』(フィルムアート社)『切り裂きジャックに殺されたのは誰か』(青土社)など。 文・篠儀直子、編集・遠藤加奈(GQ)