畳の上には30センチの間隔で「うんこ」が――朝鮮半島からの引き揚げ経験者たちが目撃した「異様な場景」 #戦争の記憶
畳の上には30~40センチの間隔で人糞が
会寧に着くまでの6日間、「寝場所の奪い合いだった」(大嶋)。学校や駐在所など、屋根のある所は瞬く間に避難民で満杯になった。少しでもモタモタすると、入れなくなる。そうなれば野宿するしか方法はなかった。 大嶋の目には、異様な場景が焼き付いている。「どこの本にも書いてない変な話なんだけどね」。大嶋が目を大きくして話を続けた。 「どこに行っても人が泊まった後は、うんこだらけなんだ。30~40センチの間隔で畳の上にバアーッとしてある。屋内だよ。後から来た者は泊まれないんですよ。夜なんか暗いところ歩いていると踏んじゃうんだ。 普通の人間、普通の避難民がやっているんですよ。これこそが戦争の不思議さ、怖さだよ」
山中を進み、足は血だらけに
羅津高等女学校3年だった得能喜美子は8月11日午後、両親と姉、妹の計5人で羅津の家を離れ、山中を歩き出した。父の秀文は前日10日の早朝、「軍の機密書類を焼却してくる」と言って家を出て、夕刻まで帰って来なかった。秀文は「満州電信電話」の羅津における責任者を務めており、軍関係の重要な通信業務にも携わっていたのだろう。府尹(市長に相当)の北村留吉が避難命令を出してから丸1日遅れの出発となった。 12日夜、山道で避難民を乗せたトラックが近づいてきた。若い兵士がメガホンで「子供連れの女だけ乗れ! 若い者は歩け」と叫んだ。母の梅子と3歳の妹・美津子だけが半強制的に荷台に乗せられた。梅子は何かを叫んでいたが、トラックは間もなく走り去ってしまった。混乱の中で父ともはぐれた。結局、得能が両親と再会するのは、翌年夏に帰国した後になる。 20歳の姉・輝子と二人、日本人の集団に付いて山中を進んだ。戦時中のズック靴は粗製で山中を歩き出すと、半日も経たないうちに底が抜けた。「最初は布きれでゴム底を縛って歩いていたのですが、砂がどんどん隙間から入ってきました」。足が血だらけになった。
薄い毛布の上に置き去りにされていた乳児
羅津を出発して3日目の午後。獣道に敷いた薄い毛布の上に、生後2~3カ月の乳児が置き去りにされていた。「乳児が泣けばソ連軍に見つかって、他の人にも危害が及ぶとでも考えたのでしょうか。母親はきっと、涙を呑んで我が子を捨てたのだと思います」 得能は何度も同様の光景に出会った。 「何人(の捨て子を)見たでしょうか。一人が捨てると、他の女性も『じゃあ、私も申し訳ないから』と真似をして捨てたに違いありません。途中で兵隊さんが『トラックに乗れ』って叫んでいたのにですね、なんで乗せてもらわなかったんだろう、って悔しかったですね。10代半ばの少女が山中に乳児が置いて行かれるのを何度も見たんです。もう、頭がおかしくなりそうでした」 *** 第1回の〈「もう一人の杉原千畝」 究極の利他を実践、6万人もの日本人を救った「義士」がいた〉では極めて過酷な状況下で6万人という、外交官・杉原千畝の「10倍」もの同胞を祖国に導いた「松村義士男(ぎしお)」について紹介している。 ※『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集。
デイリー新潮編集部
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