司法はもはや「物事の理非で決着がつけられる世界」ではない…日本のヒエラルキー的官僚組織の「深い闇」
「裁判官」という言葉からどんなイメージを思い浮かべるだろうか? ごく普通の市民であれば、少し冷たいけれども公正、中立、誠実で、優秀な人々を想起し、またそのような裁判官によって行われる裁判についても、信頼できると考えているのではないだろうか。 【漫画】刑務官が明かす…死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由 残念ながら、日本の裁判官、少なくともその多数派はそのような人々ではない。彼らの関心は、端的にいえば「事件処理」に尽きている。とにかく、早く、そつなく、事件を「処理」しさえすればそれでよい。庶民のどうでもいいような紛争などは淡々と処理するに越したことはなく、多少の冤罪事件など特に気にしない。それよりも権力や政治家、大企業等の意向に沿った秩序維持、社会防衛のほうが大切なのだ。 裁判官を33年間務め、多数の著書をもつ大学教授として法学の権威でもある瀬木氏が初めて社会に衝撃を与えた名著『絶望の裁判所』 (講談社現代新書)から、「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」ことに固執する日本の裁判所の恐ろしい実態をお届けしていこう。 『絶望の裁判所』 連載第16回 『“裁判所所長”による「法律」も「憲法」も無視したパワハラ…日本中に蔓延する“問題の大きい管理者裁判官たち”の実態』より続く
正義を失いつつある日本の司法
判事補時代の最後のころに、後に最高裁判事になられた、そして、私の知る限り最もすぐれた最高裁判事であった大野正男弁護士から、次のような言葉を聴いたことがある。 「瀬木君ね。司法は小さいと思うでしょう?全体として、小さな、狭い世界ですよ。でもね、そうはいっても、今の日本で、情実や力に関係なく、物事の理非で決着がつけられる世界は、もしかしたらここしかないかもしれないんですよ」 はしがきに記した「大きな正義とささやかな正義」に通じる言葉だが、日本の司法においてそれが実現される余地は残念ながら徐々に小さくなりつつあるのではないかというのが、私の率直な感想である。 かつて、倉田卓次という有名な学者裁判官がいた。私より30年余り年上で、思弁的SM小説『家畜人ヤプー』の著者ではないかということで一時一般的にも話題になった方である(もっとも、御本人は否定されている)。この方も、晩年に、「判決も論文も私的な文章も書けるという後輩は30年ぶりです。がんばって下さい」といった内容の、私を励ます手紙とメールをいくつも下さった。『対話としての読書』(判例タイムズ社、2003年)という書物に収めた私の文章のいくつか、また、創作『映画館の妖精』(騒人社、1998年)を高く評価して下さったことを懐かしく記憶している。 日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。 「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」 これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。