「美をつむぎだす手を持つ人」美輪明宏から称えられた華道家・假屋崎省吾の“生き甲斐”
「生き甲斐」は一つではなくいくつも持つこと
お父様が亡くなった後、すでに花の道で評価を得るようになっていたカーリーは、お母様の孝行もしたくて高名な建築家を頼んで洒落た家を建てるが、お母様は引っ越しの前日に亡くなってしまった。 ここからカーリーの華道と家への夢は邁進というより驀進という言葉通りになっていくのだが、御両親が不世出の華道家、假屋崎省吾を丹精込めて育て上げたのは間違いないとうれしくもなり、悲しくもなる。 悲しくなるというのは、ここまで大家となった息子の姿を見られなかったことと、カーリーの親孝行と美意識と将来への理想、希望、あらゆるものが詰まった家に住めなかったということだが。 ちゃんと立派になりつつある姿は見ているし、あれほどまでに息子に丹精込めたという自負があれば、息子が大輪の花として開くのは予想がつき、命が散る前にきっと満開の息子の姿を見て香しき未来の匂いも嗅いだことだろう。 カーリーの著書『華麗なる花ことば』(KADOKAWA)は、あらゆる分野への研ぎ澄まされていながら慈愛に満ちた美意識がちりばめられ、まさにカーリーの花のように瑞々しくいけられているが、特にこの箇所が人気らしい。 《小さいころは、ピアノと園芸だけが生き甲斐でした。 ピアノは3年ほど続けていました。大学受験でピアニストへの夢をあきらめて以来、やめていました。その後もピアノがあったら弾いていたいと思いながら、精神的な余裕がなかったんですね。 でも、50歳になって将来のことを考えたときに、自分の中の柱のひとつとしてまた始めることにしました。これは自分の愉しみのためとして。人前では恥ずかしくて、とても演奏なんかできません》 「『生き甲斐』は、一つではだめなんです。たった一つしかなかったら、それがなくなったときに何も残らなくなってしまうでしょう。 『生き甲斐』とは生きている甲斐ですから。そういう柱が、何本も自然と現れてくるような人生がいいですね」 好きなものには邁進、突進し、耽溺するところと、俯瞰しつつ実生活とのバランスも上手く保って、偉大な芸術家でありつつ極めて常識人なところがよく表れている。 自分に厳しくありながら、人生を楽しむ余裕も豊富。大きなお家がたくさん欲しいと笑いながら次々と叶え、しかし恐ろしいまでの花への思いはどんな広大な庭をもってしても足りないと、こちらも微笑みつつ空恐ろしくもなる。 大欲は無欲にも通じるとはこれかと、カーリーの穏やかな笑みがなんだか怖い。 あの旧岩崎邸の会場では、実際に音楽の演奏会が開かれ、カーリーはピアノには触っていなくても、花の中にも背景にも確かにカーリーの奏でるピアノ曲が流れていた。 そして繊細な花を支える太い柱を思い返し、あの花がカーリーなのか、支える柱がカーリーなのか、とも考えてしまうのだった。 さて旧岩崎邸の特設会場で、カーリーの考案した切りやすく切れ味鋭い花鋏を買った。自分が不器用に花を切って、あのような美をつむぎだせるとはとうてい思えないが、この鋏を使うたびにカーリーを思い出すので、彼の美へのこだわりや名言は復唱でき、美の種を撒いていただけたのは実感できる。 <取材・文/岩井志麻子> いわい・しまこ 1964年、岡山県生まれ。少女小説家としてデビュー後、『ぼっけえ、きょうてえ』で'99年に日本ホラー小説大賞、翌年には山本周五郎賞を受賞。2002年『チャイ・コイ』で婦人公論文芸賞、『自由戀愛』で島清恋愛文学賞を受賞。著書に『現代百物語』シリーズなど。最新刊に『おんびんたれの禍夢』(角川ホラー文庫)がある。