『関心領域』は“異例”のヒット作? 現代で注目されるべき内容と成功した設計を考察
称賛の声と批判の声、それぞれが持つ特徴
・称賛の声と批判の声、それぞれが持つ特徴 さて、実際のところ映画そのものに対して概ね絶賛する声が多く挙がっている。その“音”の使い方と作品の持つメッセージ性がやはり高く評価されており、自身の関心領域とモラルを問われる作風が多くの鑑賞者の胸に響いた。 逆に批判的な声もゼロではなく、その内容は主に「ただ抑揚なく描かれる淡々とした映像と登場人物には正直退屈させられ、映画的なカタルシスにも欠けている」という作風への批判と、歴史的な観点から「作品で描かれていることは正しくない」という声、「ユダヤ人に関する映画は彼らが殺されることばかりにフォーカスされており、普通の生活を送る彼らについて描こうとしない」といったテーマ性への批判などが国内外から見受けられた。 確かに、本作は派手で楽しい作品ではなく、心地よい鑑賞後感もない。むしろ観ていて疲れるくらいだ。登場人物の表情もあまりクロースアップで映さず、距離を置いてカメラが置かれている。しかしジョナサン・グレイザー監督の意図は、そうすることでその部屋に彼らといるかのような視点を観客に持たせることであり、登場人物にダイナミックな演出をしないことも彼らが我々と同じ、ただの人間であることを強調していた。本作そのものが彼らの日常を切り取った作品であるように、ナチス側の人間を怪物として描くのではなく、“人間”として描いたことそのものに向けられる称賛も多い。そうすることで、より同じ人間が人間に対して関心領域を閉ざすことの残虐性を強調しているのである。 妻のヘートヴィヒは何としてでも自分の築き上げた美しい家から出ようとしない。しかし一見平和で満ち溢れているかのような彼らの生活の節々に、すでに関心領域を閉ざしたことに対する報いが垣間見える。収容所の焼却炉による煙によって、家族たち、特にヘートヴィヒの咳はひどくなるばかりだし、子供たちが遊ぶ川は死体によって汚染されているのだ。映画の中では、無関係でいようとする彼らが無関係でいられないこと(目を瞑ることへの責任)がこのように描かれている。そして対比されるように描かれる、サーモグラフィの映像で捉えられた少女。リンゴを土に埋める彼女は、グレイザー監督が実際にポーランドで出会ったアレクサンドラ・ビストロン・コロジエイジチェックという人物がモデルになっている。彼女は12歳の時にレジスタンスとして隠れながら収容者に食べ物を与えていたらしく、その実話があの映像の基になっている。サーモグラフィで濃く映る部分は、熱が高いことを意味しており、少女の持つ関心の熱が塀の中で暮らすルドルフ一家の無関心さとの対比になっているのだ。 映画の中で描かれる79年前の出来事は、決して過去ではない。それは当時の彼らにとっての未来、それをスクリーン越しに鑑賞するしかない私たちの今であり、同時に未来である。この映画が時には直接的に、時にはモチーフなどを通して暗喩的に描いたものの意味に気づけたとして、そこに留まってしまえばそれはまだ壁を隔てられていないことと同時なのだ。問題は、その気づきとともにどう行動するのか。ルドルフのように廊下の先に広がる未来を見据えながらも、暗闇が濃くなる階段を自らの意思でおり続けるのか。本作が持つ本当の恐ろしさは、その問いに簡単に答えを出せないでいる我々の心根が試され、暴かれそうになる点にあるのではないだろうか。 ©Two Wolves Films Limited, Extreme Emotions BIS Limited, Soft Money LLC and Channel Four Television Corporation 2023. All Rights Reserved.
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