【東日本大震災】「わが子に土なんてかけられない」 津波で3人の子を失った母のあまりに深い悲しみ #知り続ける
我が子に土なんてかけられない
現地に赴くと、ブルーシートの上に数十の遺体が寝かされ、毛布がかぶせられていた。 遠藤は3人の子どもたちが寂しがらないよう、侃太の遺体をすでに搬送されていた花や奏と隣り合わせになるよう並べてもらった。 「もう俺が生きている意味なんてないな」 目の前の小さな三つの遺体を前に彼は心の底からそう思った。 「俺が小学校から連れ戻しさえしなければ。俺が『父ちゃんがいるから、大丈夫だ』なんて言っていなければ……」 震災直後の石巻市では遺体をすぐに火葬することができず、3人は仮埋葬になった。 石巻体育館前に掘った等身大の穴の中へと、自衛隊員たちが木の棺を運び込む。その軽さから子どもの遺体であることがわかるのか、自衛隊員たちも棺を担ぎながら大泣きしていた。 仮埋葬では関係者が棺に土をかけることになっていた。でも、綾子はそれがどうしてもできなかった。 私の取材に吐き出すように言った。 「だって、実の母親が我が子に土なんてかけられるわけないじゃないですか……」
3月下旬、綾子は避難所に設置された電話で、東京で暮らす両親に初めて事実を伝えた。 「ごめんなさい、私、子どもたちを守れなかった」 3人の孫を溺愛していた父親にそう謝ると、電話口には母親が出た。 「お母さん……」 直後、彼女は被災してから初めてわんわん泣いた。 感情を抑えられず、言葉も継げられず、涙だけが次から次へとあふれ出てきた。 *** あまりの悲しみからこの後、遠藤さん夫妻は感情を失ったロボットのようになって過ごすことになってしまう。 転機が訪れたのは、一人の外国人被災者と遠藤さんの仕事である「木工」とを結びつけた依頼だった。その経緯については後編でご紹介する。 ※本記事は、新聞記者でもある三浦英之氏が被災地の取材を続ける中で「東日本大震災で亡くなった外国人の数を、誰も把握していない」ということを震災から12年たって初めて知り、その外国人被災者たちの足跡をたどった著書『涙にも国籍はあるのでしょうか 津波で亡くなった外国人をたどって』の一部を再編集して作成したものです。
デイリー新潮編集部
新潮社