松下幸之助が「社会に貢献しない企業は許されない」と語った背景
松下幸之助は、企業の社会的責任を深く探求し、「企業は社会の公器である」という思想を確立しました。この考えが生まれた背景とは? 著書『[復刻版]企業の社会的責任とは何か?』から松下幸之助の言葉をご紹介します。 【写真】整列する社員に声を掛ける、1968年の松下幸之助(当時73歳) ※本稿は、松下幸之助著『[復刻版]企業の社会的責任とは何か?』(PHP研究所)から一部を抜粋・編集したものです。
企業の正しいあり方とは?
企業の社会的責任ということが、今日さかんにいわれています。これについては、いろいろ学者の人も研究しておられるようですし、また多くの経済人、経済団体でも、さまざまな見解を発表しておられます。 そういう衆知によって、企業の真の社会的責任というものが明確になり、それぞれの企業がその社会的責任を果たすべく努力していくならば、それは社会全体の福祉の向上にも、また企業自身の発展にもむすびついてくると思います。 ですから、企業の社会的責任が大いに論じられ、実践されていくことはきわめて大事であり、企業にとってもその責任はまことに重大なものがあります。 ただ、そういう観点から、昨今の企業の社会的責任に関するいろいろな論説を考えてみますと、非常に的をついた適正な意見もある反面、やや枝葉にとらわれて、企業の本来の使命についていささか適切さを欠くような解釈がなされている場合もみられるような気がします。そして、昨今の風潮の中では、どちらかといいますと、後者のような傾向がつよいように思われます。 そういうことですと、それは企業の正しいあり方を見誤らせ、かえってその真の社会的責任が全うされなくなるおそれがあります。そうなっては、これは企業だけでなく社会全体、国民全体の損害になると思うのです。やはり、企業とはどういうものであり、どのような社会的責任を持っているのかということが真に正しく認識されなくてはならないと思います。
公器としての役割を考える
まず基本として考えなくてはならないのは、企業は社会の公器であるということです。つまり個人のものではない、社会のものだと思うのです。企業には大小さまざまあり、そこにはいわゆる個人企業もあれば、多くの株主の出資からなる株式会社もあります。そういった企業をかたちの上、あるいは法律の上からみれば、これは個人のものであるとか、株主のものであるとかいえましょう。 しかし、かたちの上、法律の上ではそうであっても、本質的には企業は特定の個人や株主だけのものではない、その人たちをも含めた社会全体のものだと思います。 というのは、いかなる企業であっても、その仕事を社会が必要とするからなりたっているわけです。企業が、その時どきの社会の必要を満たすとともに、将来を考え、文化の進歩を促進するものを開発、供給していく、いいかえれば、その活動が人びとの役に立ち、それが社会生活を維持し潤いを持たせ、文化を発展させるものであって、はじめて企業は存在できるのです。 こういう仕事をしたいと、いくら自分だけで考えても、それが現在もまた将来においても、人びとの求めるものでなく、社会がなんら必要としないものであれば、これは決して企業としてなりたたないと思います。 今日存在する企業のすべては、そうした社会なり人びとの求めから生まれてきたものだと思いますし、また世の進歩とともに、これまであった仕事が不要になったり、次つぎと新たな事業が生まれてきたりもするでしょう。 ですから、個人企業でも株式会社でも、一面自分の意志で始めた自分のものであるという見方もできますが、より高い見地に立って考えれば、社会生活を維持し、文化を向上させるために存在している、いわゆる社会の公器だということになります。 また、このようなことも考えられます。大小にかかわらず、企業がその活動をしていくためには、土地とか資金とかいろいろな物資を使わなくてはなりません。そして、そういう土地や資金や物資は、これは一応企業の資産というか財産ということになります。 しかしこれもよく考えてみれば、たしかにかたちの上では企業のものであっても、本来は、それは社会のものだといえるのではないでしょうか。本来は社会のものであるけれども、ただ、それをよりよく活用し、社会全体を好ましい姿で維持していくために、制度の上で企業のものとしている、いわば企業に預けているのだと考えられます。 さらに、"事業は人なり"といいますが、企業活動の根幹となる人間というものは、これはいうまでもなく、天下の人、社会の人材なのです。