「父は悲しそうな顔をして、黙っていました」ベストセラー作家の息子の後悔
「祖父は会社の経営者で、そこで働く従業員がいて、子供もたくさんいました。従業員にも家族がいます。それらの人たちの生活を成り立たせ、子だくさんの一家を堂々と養っていた。それが男だというのが父の中であったと思います。でもそれを小説でやろうとするのは、なかなか厳しいものがあると思いますが」 退社を願い出た吉村に次兄は困惑した。 なぜなら吉村は会社で呉服や宝石の割賦販売を始め、事業が軌道に乗っていたからだ。その前に繊維関係の団体事務局に勤めていたときも、業務を発展させ、場末にあった事務所を新宿の厚生年金会館前のビルに移転させている。 吉村には商才があったのだ。 吉村を手放したくない次兄は、長い沈黙の末にこう言った。 〈「それではわかった。承認します。ただし、これから1年間、あんたが小説で収入を得られぬようだったら、必ず会社にもどる。いいね」〉(『私の文学漂流』新潮文庫)
そのやり取りから、1年という期限はこのときに出たのかもしれない。1年やってものにならなかったら会社に戻るという念書まで交わしている。まさに背水の陣の賭けだが、1年あればという確信があったのだろうか。 ● 不釣り合いな妻を幸せにすべく 売れない純文学より『戦艦武蔵』 「父は片方の肺がない上に、大学は中退で、言ってみれば1文無しじゃないですか。そういう身で、社長令嬢を妻にしたわけです。相当のプレッシャーがあったでしょう。その分、なんとかしてという気持ちが強かったと思いますよ」 すぐれた小説を書き、それで一家を養うだけの収入を得る。どちらもやってのけた吉村を改めて見事な人だと思う。その大もとを辿れば、ベタ惚れで結婚した女を、どうにかして幸せにしなければという心理的な重圧があったのだ。 それがすべての原動力になっていたのかもしれない。
〈しかし、1年間の期限がきられても、私には文筆で収入を得るあてはなかった。〉(『戦艦武蔵ノート』文春文庫) と吉村は記している。太宰治賞だけでは一家4人の生活は厳しかった。1年と期限を切られたその時期に、「武蔵」の話があったのは、今となっては運命のように映る。 ● 思いをわかってくれない息子に 父は悲しそうな顔をして黙った 吉村の1日は規則正しく、朝8時10分に起床し、朝食を終えると離れの書斎に「出勤」した。昼食をはさんで仕事をし、夜の6時になると書斎に鍵をかけて母屋に戻った。 それからは家庭人の時間だった。子供たちに仕事の話をすることはあったのだろうか。 「夕食のときに、父は書いている小説の話をしてくれました。父の小説は読んでいました。中学から高校にかけて、父の小説に夢中になったことがあります。『星への旅』や『少女架刑』といった初期の純文学作品が好きでした。眼に浮かぶような鮮烈な描写に芸術を感じました」 だからなのか、司は『戦艦武蔵』を読んだときはがっかりしたという。初期の作品こそが吉村の本領と思い込んでいたので、『戦艦武蔵』は史実を書いているだけで、創作とは思えないと吉村に言った。