張飛・最強説が「呂布無双」に変わった?! 吉川英治『三国志』オリジナル描写の凄さとは
“無人の境を行くが如しとは、まさに、彼の姿だった。何百という雑兵が波を打ってその前をさえぎっても、鎧袖(がいしゅう)一触にも値しないのである。馬は無双の名馬赤兎。その迅さ、強靱さ、逞しさ。赤兎の蹄(ひづめ)に踏みつぶされる兵だけでも、何十か何百か知れなかった。” 吉川英治が『三国志』で描いた、虎牢関の戦いにおける呂布(りょふ)の戦闘描写は、じつに勇壮だ。方悦(ほうえつ)、穆順(ぼくじゅん)、武安国(ぶあんこく)といった猛者たちを寄せ付けず、王匡(おうきょう)や公孫瓚(こうそんさん)は睨んだだけで逃げ出すありさま。 そこへ挑みかかるのが、公孫瓚の陣営にいた張飛。装備の貧弱さを見て、呂布は相手にしようともしなかったが、迫ってきた張飛の攻撃の鋭さから、意外に手ごわいと見て打ち合う。張飛が「こんな豪傑がいるものか」と舌を巻けば、呂布も「どうしてこんなすばらしい漢(おとこ)が歩弓手(ほきゅうしゅ)などになっているのだろう」と驚きながら武器を振るい合う。 “呂布の勢いは、戦えば戦うほど、精悍の気を加えた。それに反して、張飛の蛇矛は、やや乱れ気味と見えたので、遥かに眺めていた曹操、袁紹をはじめ十八ヵ国の諸侯も、今は、内心あやぶむかのような顔色を呈していた” そこで関羽、つづいて劉備が加勢するのだが、それでも呂布の矛先は鈍らない。「束になって来い」とまだ嘲笑う様子を見せる。呂布の一撃が劉備の顔を突こうとした刹那、張飛と関羽が呂布の馬を挟み、鞍同士がぶつかりあって赤兎馬が驚いたので「後日再戦」と言い捨てて撤退するのである。 また、それから数年後に濮陽(ぼくよう)で曹操軍と戦うときの描写も凄い。「呂布の勇猛は、相変らずすこしも老いていない。むしろ年と共にその騎乗奮戦の技は神に入って、文字どおり万夫不当(ばんぶふとう)だ。まったく戦争するために、神が造った不死身の人間のようであった。」と、吉川は描く。 そこへ、曹操の旗下へ入ったばかりの許褚(きょちょ)が挑むが、呂布は彼ごときを近づけもしない。さらに典韋(てんい)が助太刀に入るも、呂布の戟にはなお余裕があり、夏侯惇・夏侯淵・楽進・李典までもが集まって6対1の形勢で、ようやく追い払うのである。 これを原作とした横山光輝版(漫画)では、曹操が「なんという男よ、悪来と許褚を子供のようにあしらっておる」と舌を巻く描写もある。小説の吉川版、漫画の横山版という日本の三国志作品において「呂布最強説」が後押しされ、定着したといっても良いだろう。 ■しかし、原作『三国志演義』では…… なぜなら、それらの原作である中国の『三国志演義』において、これらの場面は意外とアッサリした描写にとどまっているためだ。 “張飛は呂布と渡り合い、五十合以上も戦ったが勝負がつかない。関羽はこれを見ると青龍偃月刀を舞わせて呂布を挟み撃ちにした。なお三十合も戦ったが呂布を打ち負かせない。劉備が一対の剣を抜いて黄色いたてがみの馬を走らせ、斜めから加勢した。” このように、吉川版のように張飛が打ち負ける様子はなく、比較的淡々とした情景描写に終始する。 “三人が呂布を囲み、回り灯篭のように戦うさまを、八軍の将兵は呆然と見ほれている。と、防ぎ切れなくなった呂布が、劉備の顔めがけて脅しの一撃を加え、劉備はパッとかわす。一角を崩した呂布は画戟を倒して馬を飛ばして逃げる” 呂布は3人がかりの攻撃に苦戦し、疲れて逃げたというような恰好で「後日再戦」のような台詞もなく退散する。許褚と典韋を相手にするときも「勝負がつかない」という程度で、曹操は四将を加勢させ、とたんに呂布は逃げ出して、ほんの数行で終わってしまう。それでも十分なほどの強さかもしれないが、いささかの物足りなさもある。 ■『三国志平話』では張飛に敗れる呂布 ここで「演義」のモデルのひとつとなった小説『三国志平話(へいわ)』と比べてみよう。やや驚くべき、面白い描写になっているからだ。以前、この平話には「汜水関」および華雄(かゆう)が登場しないことに触れたが「虎牢関」は登場し、そこに呂布がいきなり出てくる。 また、呂布に最初に挑むのが陶謙(とうけん)配下の曹豹(そうひょう)なのである。だが、やはりというべきか曹豹はたちまちにして呂布に生け捕られてしまう。 次に呂布に挑むのがなんと孫堅(そんけん)。しかし、三合も持たずに敗れ、命からがら逃げ出し、逃走中に脱ぎ捨てた兜と戦袍(せんぽう)を奪われる不名誉を晒す。「演義」では華雄から逃げ回るだけの孫堅だが「平話」では呂布と槍を合わせるだけマシというべきか。 そして真打ち、張飛の登場である。「張飛は呂布と斬り結ぶこと二十合しても勝負がつかない。関公(関羽)はいたたまらず馬を飛ばして長刀をふるって出、二将が呂布と斬り結び、先主(劉備)も黙っていられず、二振りの剣を手に(中略)・・・呂布はたまらずに逃げ出し」と3人がかりの戦いの様子は、この頃から描かれていたようだ。 「平話」では、翌日にもう一戦行われる。張飛が虎牢関に迫り、またも呂布に戦いを挑むのだ。今度は三対一ではなく一対一。「張飛独戦呂布」である。数十合打ち合ったすえ、呂布は張飛に圧倒され、頬当(ほおあて)や背中の旗を弾き飛ばされたあげく、馬を返して虎牢関へ逃げ込む。 なんと天下無双の呂布が一騎討ちに敗れてしまうのだ。しかも後年、下邳(かひ)城下で呂布を捕らえるのも張飛。この「平話」では張飛が最強なのである。 それでも一応、劉備と袁術(えんじゅつ)の戦いを、戟を弓で射て仲裁する場面(正史からの引用)は「平話」にも描かれているし、物語序盤には貂蝉(ちょうせん)をめぐって董卓と争う様子もある。物語の台風の目ではあり、それが「演義」を経て吉川版や横山版へとつながっているのである。 『三国志演義』が成立する以前、呂布は民間では決して最強とはみなされていなかったのだろうか。ゲームに親しんだ方なら、呂布の武力は常に最高値であるのをご存じだろう。その強さを信じる人にとってはかなりショッキングな話だったかもしれない。そういえばNHK『人形劇 三国志』の呂布は劉備との一騎討ちに敗れて自害するという最期だが、あれも同じようにショックだったっけ・・・。 正史には記されない「虎牢関の戦い」はいわばフィクションではあるが、このように作品ごとに違う戦闘描写の比較をしてみると、吉川英治によるアレンジがいかに秀逸であり、後世とくに日本の三国志界への影響が強かったかが理解できよう。
上永哲矢