メディアリテラシー求めた後藤新平 関東大震災が背中押したラジオ、難産極めた第一声 AMノスタルジー②「産声」
東京放送局では、放送開始に備えて米国製の送信機を導入予定だった。ところが、大阪放送局がその送信機を先に購入していたことが判明。放送開始まで2カ月を切った14年1月、東京市電気研究所が所有していた無線電信用の送信機を急遽借り、ラジオ用への改修作業が始まった。
その担当チームを率いたのが、前出の逓信省電気試験所から東京放送局に移っていた北村だった。東京高等工芸学校の一室を間借りした狭い放送所で、文字通り四六時中、寝る間も惜しんで改修に当たった。
川村氏は元カメラマンで旭川放送局長も務め、番組制作や放送技術に精通しているだけに、北村の焦燥感が手に取るように分かるという。「どれほどのプレッシャーで作業に当たったことか。胸中を想像すると本当に頭が下がる思いです」
送信機を検査に来た逓信省の職員は、北村が機械に付いている試験伝票を頭に貼り付けたまま、取る暇もないくらい忙しく電話をかけていたと述懐している。
■皆が「自治と倫理」を
ようやく迎えた3月22日。東京放送局の初代総裁で震災復興を担っていた後藤新平は、放送の役割として「文化の機会均等」「家庭生活の革新」「教育の社会化」「経済の敏活化」を挙げ、こう呼びかけた。
「放送局の当事者も聴取者も、関係者全てが高い自治的自覚と倫理的観念をもって、この新文明の利器を活用していかなければならない」
NHKメディア総局長を務める山名啓雄氏は「100年前の言葉だが、メディアや放送がどうあるべきかを示唆している」と語る。メディアの受け手に高い意識を求める「メディアリテラシー」という言葉もない時代に、後藤はその本質を見抜いていたといえる。
産声を上げたラジオは、人々の情報との関わり方を大きく変えていく。(大森貴弘)
■スリムな鉄塔、文化財だったかも
東京高等工芸学校内の仮スタジオから始まったラジオ放送だったが、4カ月後の大正14年7月、東京・愛宕山に完成した本放送局からの送信が始まった。現在、NHK放送博物館がある場所だ。当時の放送は出力が弱かったため、少しでも高い所にという理由で選ばれたという。海抜26メートルの山上に、高さ45メートルの鉄塔が2本、建った。
この鉄塔を設計したのは、建築家の内藤多仲。耐震構造の第一人者とされ、東京タワーなど多くの鉄塔を手がけている。前NHK放送博物館館長の川村誠氏は「他の鉄塔と違いスリムな形が特徴的で、それが構造設計の巧みさなのでしょう。もし残っていたら、文化財のように扱われたかもしれません」と話す。