結論を「出せない」のではなく「出そうとしない」 堂々巡りの「石丸論法」を育んだ京大という“土壌”
先の東京都知事選挙で質問者への逆質問を繰り返し、「堂々巡り」との批判を受けた石丸伸二氏の独特の論法ですが、社会学者の鈴木洋仁氏によれば、それは「京大生の議論の特徴」でもあるそうです。 議論の結論を「出せない」のではなく「出そうという気がない」。そんな思考を育む京都大学特有の事情について、自身も京大出身である鈴木の著書『京大思考』から、一部を抜粋・編集して紹介します。 ■結論を出せないのではなく、出そうという気がない
石丸伸二氏に言及したプレジデントオンラインのコラムで、私は京大生の議論の特徴を「堂々巡り」と書いた。結論を出せないのではなく、出そうという気がないし、出さないのが悪いとも思っていない。少なくともそうした感覚を持っていた。 この感覚を生み出す要因は京都大学の地理、さらには、京大生の住環境にあったのではないか。 そもそも学生も教員も大学の近所に住んでいるので、終電を気にしない。夜に移動する必要がほとんどない。20年前はまだ朝まで営業している飲み屋がたくさんあったし、大学も24時間出入りできた。話を続けようと思えばエンドレスである。大学に近い鴨川べりに行く人間もいたものの、私には飲み屋で延々と話を続けた記憶ばかりである。
東京であれば、東大にせよ、早稲田や慶應でも、こうはいかない。あるいは、都市圏以外や、京都のほかの大学でも、終電の縛りはないかもしれないが、それでも議論を止めようとは思うに違いない。 石丸氏がどうかはわからない。私の周りに漂っていたのは、話をまとめて終わりにしようとするよりも、むしろ納得するまで続けよう、続けなければならない、続けないでほかに何をするのだ、と言わんばかりの「ユルさ」だった。 その「ユルさ」は、夜に限らない。昼ごはんに限らず、朝ごはんや、夜ごはんも、学食でとる人ばかりだった。理系の研究室が不夜城と呼ばれるのは、どこの大学でも共通するようだが、京大の場合は、帰れないというよりも、みんなが無意識に帰らない。帰ろうとしなかった。