今さら聞けない「普天間移設問題」 なぜここまでこじれたの?
沖縄の米軍普天間飛行場の辺野古移設をめぐって、政府が申請していた埋め立て申請を、沖縄県の仲井真知事が承認しました。普天間返還の日米合意から17年、普天間基地の移設へ向けて前進したと評価する声がある一方、沖縄の市民からは抗議の声も上がっています。埋め立ては承認されても、2014年1月には、辺野古がある名護市で市長選挙が控えています。立候補を表明している有力候補の中で、現職の稲嶺進市長は移設反対派。それに対し、移設推進派は自民党前県議の末松文信氏に一本化し、辺野古移設実現を目指します。 普天間問題は、なぜこんなに長引いているのでしょうか。いま一度、その経緯を振り返ってみましょう。
普天間移設問題のはじまり
普天間飛行場をめぐる基地問題解決の気運は、1995年9月に発生した「米兵少女暴行事件」で高まりました。日米両政府は「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」を設置し、在沖米軍基地の整備や縮小、統合を検討。翌年、橋本龍太郎首相とビル・クリントン大統領(いずれも当時)の間で、代替施設が5~7年以内に完成して運用可能になれば、普天間飛行場が全面返還されることで合意しました。 稲嶺知事(当時)は、「飛行場の軍民共用」「15年の使用期限」を条件に移設候補地として名護市辺野古沿岸域を表明し、岸本名護市長(当時)もそれに同意。代替施設は、沖縄本島の東海岸沖に建設されることが決定しました。つまり、「どこに造るか」という点では、一度は決着がついていたのです。
政府と沖縄で「溝」深まる
政府と沖縄はさまざまな協議で話し合いを続けていたものの、両者の大きな溝となったのが普天間代替施設の受け入れ条件である「15年の使用期限」です。沖縄側は基地の固定化を嫌う県民感情に配慮し、期限を設ける必要性がありました。 しかし、政府はアメリカとの関係性を考慮。アメリカ側は15年後の国際情勢の見通しが立たないこともあり、使用期限の設定には否定的な立場を取りました。国内でも、使用期限について田中真紀子外相(当時)が疑問を呈したり、麻生太郎自民党政調会長(当時)が批判をしたりするなど、波紋を投げかけました。結果、移設は膠着(こうちゃく)状態となったのです。