ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (21) 外山脩
騒ぎは起こるべくして…
かくして、騒ぎは起こるべくして起きた。 最初のそれが、サンパウロ州のほぼ中央部、モジアナ線リベイロン・プレットの近く、英国人経営のファゼンダに於いてであった。熊本、広島、東京、福島、宮城、その他からの二〇七人が送り込まれていた。 住まいは、ズラリと並んだ一棟二軒の造りで、内部は三間ないし四間。どの部屋も土間で薄暗く異臭が鼻をついた。土間には、牛の糞が貼りついたまま残っていた。 労働は午前六時からであった。就労する場所が遠い場合、四時には起きる必要があった。 このファゼンダのカフェーの実の生り方は特に悪く、収穫量は懸命に働いても、労働力三人の家族で一日一袋半にしかならなかった。日本で聞いた九袋の六分の一である。 濡れ手に粟どころではない。ひと財産稼いで日本に帰る夢は吹っ飛んだ。 「まるで地獄ごたる。こういう所は辛抱できんから、日本へ返してくれ」 と泣き始める女たちもいた。 皆、パニックになった。次いで早くも逃亡者が出た。 逃げたのは数名の若者である。 その中に、後年、日系社会で有名になる間崎三三一(マサキ ササイチ)が居た。二十一歳だった。 土佐の名家に生まれたが、海外に憧れ、笠戸丸移民の募集を知った時、大工と偽り職工移民として応募、渡航した。 しかし移民収容所で、その偽りがバレた。他にも同種の若者が居り、計六人でひとまとめにされ、ドゥモントへ送られた。 そこで、他の家族移民はカフェーの収穫作業に就労したが、六人はその収穫した実の乾燥場(テレーロ)の仕事を命じられた。裸足で熱した鉄板の上で作業する様な労働で、初日で足が動けなった。日当も極端に少なく、到底、堪えられなかった。六人は相談、先ず間崎たちが、一夜、ファゼンダを密かに抜け出した。 なんとかサンパウロに辿り着き、本物の職工移民で、市内で大工として働いていた某を頼ったが、相手にしてくれない。 止むを得ず、夜は野宿、昼は仕事を探して歩いた。食べ物はポンとバナナだけだった。 時期は七月。南半球だから真冬である。夜は毛布にくるまって寝たが、朝になると、その毛布に霜が降りていた。 四日目。彼らが中心街を歩いていると、向こうから来る上塚周平とバッタリ会ってしまった。上塚は驚いて色々詰問したが、ともかく自分の泊まっている宿に連れて行き、事情を訊いた。 (この部分は「彼らは、ファゼンダから逃げ出し、なんとかサンパウロに着いたものの、ポルトガル語も判らず地理も不安内で、路上で途方にくれていた。親切な市民が藤崎商会へ知らせ、そこから皇国殖民の事務所に連絡が入った。雑用係をしていた香山六郎が迎えに行って連れて帰り、上塚が事情を訊いた」と記す資料もある) 彼らはサンパウロで働くことを強く望んだ。が、上塚が、 「ファゼンダに対し、会社の責任者として私も困るが、日本政府も困る」 と、ファゼンダへ戻る様、説得・懇願した。 やむなくドゥモントへ帰るべく汽車に乗った。が、途中、何故か車掌に汽車から引きずり降ろされてしまった。 そこは、大草原の中にポツンと駅舎があり、他には店が一軒だけという処だった。その店の親爺が裏にある小屋に泊まってもよい、と言ってくれたので、そこで一夜を明かした。が、朝になると、全身真っ黒になっていた。砂蚤だった。皮膚の中に食い込んでいた。この時のかゆみと痛みは、生涯忘れられぬモノになった。実は小屋は放し飼いの豚の寝床だったのである。 見かねたのであろう、駅長がドゥモントのある駅までの切符を恵んでくれた。 それでやっとファゼンダへ帰りついた。