マンガ『タテの国』『ドラゴンの子』の作者・田中空の創作に影響を与え続けている文庫本3冊とは?(レビュー)
二つ目は安部公房の短編集『無関係な死・時の崖』。彼の作品の夢か現実かその境目が分からなくなるような場面描写が好きなのだが、収録作で一番印象に残っているのは「人魚伝」だ。例えば次の場面がある。 彼女はまさに、緑そのものだったのである。皮膚はもちろんのこと、髪も、眼も、唇も、なにからなにまでが緑色だった。 主人公が出会う人魚の描写だが、全てが緑色の人魚。このイメージは一度読んだら忘れられない。奇妙な夢を見ているような感覚に包まれる。本作では人魚の描写がこれでもかと登場するが、アパートの風呂場にいる一言もしゃべることがない人魚の匂いまでが本から漂ってくる気がした。個人的に夢の中の風景は、現実とは別の本質が潜んでいると思っていて、本作が描くイメージは夢の中で感じる得体の知れない本質に似ている。イメージが身体にねっとり張り付き、五感が刺激される作品だ。
最後はマーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』。誰もが知っている作品であり、目に浮かぶ場面はたくさんあるが、意外に最もイメージを記憶しているのは、女友達のベッキーが先生に追い詰められ絶体絶命の窮地に陥る次の場面だ。 ベッキーの両手が嘆願するように持ち上がった 彼女の手はきっと小刻みに震えている。その振動が紙から伝わってくるようだ。両手が持ち上がるという描写もたまらない。そしてこの後の展開は何度思い出しても楽しい。十九世紀のアメリカに暮らす彼らが文庫の中でずっと生きていると本気で思ってしまう。 こうした本から得たイメージは永遠に消えない。自分もそんな記憶に残るイメージを作品で生み出したい。 ※[私の好きな新潮文庫]記憶に残る〈イメージ〉――田中空 「波」2024年5月号より [レビュアー]田中空(漫画家) たなか・くう 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
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