高野連が新潟独自の球数制限実施に“待った”の賛否
ただ球数制限は、投手を揃える強豪校に有利となり公平性に欠けるのも事実。筆者の母校、大阪の寝屋川高も昨年は春の大会で、大阪桐蔭をあとアウト一つまで追い詰め、“公立の星”と騒がれた夏はベスト8で履正社に敗れたが、好投手の藤原涼太が一人で投げ切って支えた快進撃で、もし球数制限が設けられていれば、そこまでは進めなかっただろう。 彼は連投を買って出ていたし、「プロ、大学、社会人に進むのは一部で高校野球で終わっていいと考えて野球をやっている選手も少なくない」という声もある。 また球数制限を導入している米国との比較論、筒香が口にした勝利至上主義への反対論についても、甲子園を目指す汗と涙の勝利至上主義こそが、日本の高校野球の伝統であり文化だという考え方も根強い。 だが、この議論になると一部のインテリ層がいつも声高に叫ぶ“そもそも論”があることも忘れてはならない。 高校野球の伝統と文化も主催新聞社の拡販に絡んだビジネスから生まれたもので、実は、そのルーツからボタンの掛け違いが起きていて“根本的な定義”から変革せねばならないという意見だ。後原氏もコメントしているが、高校野球は決して興行ではなく部活動という教育活動なのである。本来の姿に立ち返ることが、新時代の高校野球論であり、筒香が訴える新しい高校野球の姿なのかもしれない。その観点に立てば“弱小校不公平論”もナンセンスということになる。 おそらく新潟高野連は、日本高野連の「再考申し入れ」を受け入れるだろう。甲子園出場のかかっていない春季大会なのだから、もし球数制限が導入されていれば、どういう効果が生まれ、どういうハレーションが出てくるかを知る絶好の実験になったと思う。むしろ遅すぎるくらいの新潟高野連の決断を「慎重」「検討」「足並み」を理由にさらに遅らせる意味がどこにあるのか。まるで官僚組織である。 日本高野連が4月から発足させる「投手の障害予防に関する有識者会議」に、新潟高野連の代表者以外にどういうメンバーを集められるのかはわからないが、あまりにスピード感に欠ける。この手の有識者会議で議論するより、新潟高野連のまず一歩踏み出す決断をなぜ黙って見守ることができなかったのだろう。 今後は有識者会議のメンバー選びと、会議での議論の推移を見守っていくしかない。そんな悠長なことをやっている間に、また未来のある投手が登板過多で、肩、肘を壊す悲劇が起きるかもしれないのである。(文責・本郷陽一/論スポ、スポーツタイムズ通信社)