夕方5時まで仕事でその後ピッチング練習…元プロ野球選手が語る「先発投手」と「営業マン」の意外な共通点
プロの世界では、どこで差が生まれるのか。元プロ野球選手の川口和久さんは「プロの先発投手は登板する月5試合のうち2勝すれば、6カ月で12勝、先発投手としてのノルマは達成する。月の初めにポンポンと2勝すれば、3試合目は勝てば儲けもので、来月の貯金のつもりで投げられる。これはセールスマンと同じ。ノルマ達成して、肩の力が抜けると余計売れる」という。鳥取大学医学部附属病院の武中篤病院長との対談をお届けする――。 【写真】鳥取大学医学部附属病院の武中篤病院長(左)と元プロ野球選手・コーチで野球解説者の川口和久さん ※本稿は、鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 17杯目』の一部を再編集したものです。 ■温泉街のど真ん中にある旅館で一年中外遊びの少年時代 【武中篤(鳥取大学医学部附属病院長)】いきなり申し訳ないんですが、ぼくは江夏(豊)さん、田淵(幸一)さんの時代から(阪神)タイガースファンでした。川口さんがいた広島(カープ)は兄弟球団という感じというか……。 【川口和久(元プロ野球選手・コーチ)】(首を振って)もうどこのファンでもいいんです。とにかくプロ野球を応援して盛り上げていただければありがたい。 【武中】川口さんは鳥取市の生まれ。ご実家は吉岡温泉の旅館だったとか。 【川口】温泉街のど真ん中にある旅館でした。朝早くから深夜までお袋たちがお客さんの応対をしていました。夜まで電気がついているので、近所の仲間が集まってきて、ずっと外で遊んでいました。昼間は(収穫が終わった)田んぼで野球をして、川や海で泳いだり、文字通りの野生児でしたね。 【武中】ぼくは兵庫県の加東市出身ですが、同じような生活でした。ただ、うちは内陸部なので海はなかった。 【川口】秋は山でアケビや栗をとったり、冬はスキー。湖山池が近いのでテナガエビを釣ったり。夏は(日本海側の)白兎海岸まで自転車で3、40分走って泳ぎに行ってました。 【武中】最高の少年時代ですね。
■「石投げ」で肘の使い方を習得した少年時代 【川口】海岸で石を投げて、何段ハネるか競い合ってました。(立ち上がって左腕を横から振って)こうやってサイドから石を投げるじゃないですか。この肘の使い方って、ピッチャーゴロをとって、ファーストにふわっと投げるときと同じなんです。 【武中】遊びながら肘の使い方を習得していた(笑い)。子どもの頃からプロ野球選手になるつもりでしたか? 【川口】ぼくは3人兄弟の末っ子なんですけれど、上の2人が無茶苦茶野球が上手かったんです。兄を見ながら野球をしていただけでした。ぼくは投げるのは左なんですが、右打ち。(右打ちの)兄の真似をしていたら、右打ちになってしまった(笑い)。 【武中】左投げは川口さんだけ? 【川口】ぼくだけです。旅館やっていることもあって箸を左で持つなと親からきつく言われて、日常生活では一生懸命矯正しました。ぼくは右手で鉛筆持ちながら、左手に消しゴム。ハサミも両手で使えます。 【武中】外科医の世界では、左利きの人は両手を使えるから手術が上手いっていう説があります。利き手ではない方を使わなければならないので器用になるのかもしれません。 ■高校3年で契約金3500万円のドラフトを拒否した理由 【武中】川口さんは中学校卒業後に地元の鳥取城北高校に進みました。他県からも誘いがあったのではないですか? 【川口】ありました。でも一番熱心に誘ってくれたのが鳥取城北でした。 【武中】どの高校に行くかというのは、一つの大きな選択ですよね。 【川口】ぼくの場合は鳥取城北が合っていたと思います。というのも、ほとんど教えられなかったんです。当時の鳥取は(読売)ジャイアンツ戦しか中継がなかった。(同じ左投げの)新浦(壽夫)さんの脚の上げ方とか真似ていたら、球が速くなった。 【武中】真似ることで自分のスタイルを確立した。高校生のときにはすでに全国に名前を知られるようになり3年生のときロッテ(オリオンズ 現千葉ロッテマリーンズ)からドラフト指名を受けました。 【川口】(監督だった)金田(正一)さんから電話がかかってきて、「俺の背番号34と契約金3500万円約束するから来い」って。ロッテに行くとすごく走らされるという印象があった。高校から入るよりも社会人で即戦力としてプロ入りした方がいいという考えもあったので断りました。 【武中】そこで鳥取城北から大阪にあった社会人野球のデュプロに進まれた。そこでは野球中心の生活だったんですか? 【川口】仕事8割、練習2割でした。朝から夕方5時まで営業マンとして普通に仕事していました。仕事が終わったら(大阪の)中之島公園を走って、会社の屋上にあったブルペンでピッチングして帰る。専用のグラウンドもなかったので全体練習場所も日替わりでしたね。