事実上の”出禁”だった過去も…日本協会・宮本恒靖新会長が<日本酒を嗜んだ>中田英寿氏入閣の現実味
ただ、中田氏は長くJFAへの事実上の出入り禁止が続いていた。‘08年にヒデが立ち上げた一般社団法人「TAKE ACTION FOUNDATION」が行ったチャリティーマッチが原因だった。 「JFAは、ヒデ(中田氏)が企画したというこの試合について、わざわざ国際サッカー連盟(FIFA)にまで掛け合って支援を要請しました。ところがこれが純粋なチャリティーマッチではなかったことが後で発覚した。一部で利益をあげていたことにJFA側が大激怒。この出来事以来、ヒデ(中田氏)はJFAの敷居を跨げませんでした」(前出の記者) さらにその6年後の‘14年W杯ブラジル大会に出場を決めたイタリア人のザッケローニ監督のアルゼンチンとの親善試合(1―0 ’10年10月8日)で中田氏によるザッケローニ監督へのインタビューがあった。 「この試合を放送したテレビ局がJFAハウスでこのインタビューを撮りたいと希望したが、JFA幹部が“ハウスでヒデの取材は絶対させない“と拒否をしました」(同) それほど、JFAと中田氏サイドのミゾはかなり深かったが、中田氏に対する事実上の”出禁”を主張したJFA幹部はすでに勇退している。さらに今回の宮本新体制で専務理事に就任した湯川和之氏の存在が大きいという。 ‘06年W杯ドイツ大会1次リーグ最終戦、ブラジルに1-4と惨敗して中田氏は現役を引退した。試合終了と同時に大の字になって泣き崩れた中田氏にチームメートはほとんど寄り添わなかった。 「ヒデ(中田氏)が引退するなんてジーコ監督も選手も誰も聞かされていなかった。だから『なぜ、いつまでも寝転んでいるのだ?という空気だった」(現場で取材した記者) このとき、ヒデをたった1人で肩を叩き、抱き抱えたのが当時、チームマネジャーだった湯川氏だった。 「今回の宮本体制で湯川氏はJFAの NO.3にあたる専務理事に昇進しました。湯川氏は『これからFIFAにもしっかり主張していくには、代表歴のある選手たちがどんどんJFAの幹部になっていくセカンドキャリアがあるべきだ』と話していました。ヒデ(中田氏)との関係も良好ですから、宮本会長さえ決断すればヒデ(中田氏)がJFAで現場復帰できる環境は完璧に整っています」(同) 宮本新会長も中田氏とは2人で食事にいく関係を今も続けている。宮本会長は就任のマニュフェスト(公約)の最重要項目に「日本代表を強くする」ことを挙げているものの、一方でクラウドファウンディングを始めなければいけないほどの財政難や、パリ五輪出場権を決めてもなかなか盛り上がらない、女子サッカーの人気回復の問題や数多くの課題もある。 宮本会長は「自分1人ではできないこともあるのでたくさんの人を巻き込みながらサッカーの発展に貢献したい」と宣言した。その1人が「中田英寿」なら誰もが納得して、宮本新会長の支持率上昇につながるだろう。
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