死への恐怖 修羅場と化した不動院 4歳で被爆した男性 命絶えるまで語り継ぐ 北海道
そこには、焦げて真っ黒になった人であふれる恐ろしい光景が広がっていました。 当時の記憶を頼りに大村さんが描いた絵です。 やけどをした多くの人が橋を渡って逃げた様子が描かれています。 (大村一夫さん)「(兵隊は)ちょうど体操中にパンツ1つで爆破されたから、全身血だらけ血みどろ、水くれー水くれー。あつくて我慢できないから、どんどん川に飛び込んだ。ぷかぷか流されながら頭がだんだん沈んでいく。そのうちに火が迫ってきた」
その後、北へ逃げた大村さんとその家族。 命からがら歩きついたのは、避難先の農家でした。 当時を知る人はもう残っていないのかー (大村一夫さん)「11月で満84になるんです」 (地元の人)「私は88」 (地元の人)「私が92です。まだ小学校6年生のときに原爆にあいました」 (大村一夫さん)「だいたいこの辺だってわかるけど、これだけ住宅建つとわからないもんね」 (地元の人)「そうですね。わからないですね」
生きのびた奇跡…記憶と向き合い再認識したこと
当時、多くの人が避難したのが、爆心地から3.9キロの距離にある不動院です。 その日、境内には被爆者があふれ修羅場と化したといいます。 (不動院 麻生弘融さん)「うちも境内でいっぱい人が亡くなっていますからね、原爆のあと逃げてきた人たちが。うちは子どものころには掘れば骨が出るようなところだった。再開発があったり、みなさん転居したりで、それが誰なのかは私たちではわからない」
大村さんが79年前に避難した農家を見つけることは叶いませんでした。 それでも再認識することができたのは、生きる目標です。 (大村一夫さん)「改めてここに立てるということがなんなのか、やっぱり立てなかった人たちの分まで何とかしなければならない。そういう思いをして生きている人たちがいるんだと。自分は幸い周りに守られて生きていたんだという現実、毎年思います」
被爆の記憶をたどることはつらく、苦しい。 しかし、生きのびた奇跡を広島の空から確認します。 自宅は全壊し、その後の人生を変えたあの日の原爆。