悲しい出来事伝えねば ハンセン病回復者の山内さん 古里藤枝の小学校で初講演
藤枝市出身のハンセン病回復者で、現在は国立療養所多磨全生園(東京都)で暮らす山内きみ江さん(90)がこのほど、市立朝比奈一小(村松一伸校長)を訪れ、人権学習会で半生を語った。その歩みは、患者に対する人権侵害の歴史とともに小学生の道徳の教科書に掲載されている。「人が同じあやまちをくり返さないよう、ハンセン病の語り部になりたい」。子どもたちに向け書かれた夢を初めて古里でかなえた。 山内さんは1934(昭和9)年、同市瀬戸谷生まれ。児童期から斑紋などの症状はあったもののハンセン病の自覚はなく、22歳で初めて診断された。同療養所に入所して夫・定さんと結婚。当時は患者同士の結婚は断種が条件だったが、子どもを望み、養女を迎えた。 学習会では、第2次世界大戦下の竹やり訓練の際、手足のしびれで、敵に見立てたわら人形を突けずに教員にしかられた経験を振り返った。差別や偏見の激しい時代、家族に迷惑をかけないように、あえて県外の療養所に入所した経緯も説明した。 登壇をちゅうちょしたと明かしながらも、「悲しい出来事をお伝えすることが私の使命」と強調。家族と職員の支えや五行歌に励む自身の近況に触れ、どのような環境下でも学ぶことの大切さを説いた。自然豊かな古里の児童に向けて「みんなが楽しく生活できる世の中にしてほしい」と何度も呼びかけた。 今回の帰郷で、数十年ぶりに親族や級友とも再会した。同校で飼育するサワガニやアサギマダラも見学し、幼少時代を思い返す一幕もあった。「これで最後かと思っていたけれど、長生きしてもう一度おじゃましたい」。講演後には感極まり、瞳を潤ませた。 山内さんと交流のある国立ハンセン病資料館(東京都)の主任学芸員の金貴粉さんも講演した。ハンセン病の「予防法」などにより患者を強制隔離し、薬で治る病となってからも差別や偏見が続いた歴史を紹介した。 児童はハンセン病と闘いながら名句を生み出し「魂の俳人」として知られる郷土出身の村越化石について授業で学んできた。学校創立150周年を記念し、山内さんを招いた学習会を企画した。4~6年生約30人のほか、地域住民や、山内さんの養女家族も聴講した。4年の相原わこさん(10)は「自分に自信を持った山内さんの生き方がすてき」と感想を話した。 <ハンセン病>「らい菌」による感染症で皮膚の発疹、まひ、手足や顔の変形などの症状がある。感染しても発病はまれ。現在では治療できる病気となり、国内での新規患者はごく少数。後遺症があっても治っていれば感染源になることはない。日本では1931年制定の「癩(らい)予防法」や同時期の「無らい県運動」により全患者の強制隔離と地域からの排除が進んだ。治療薬の効果が確認されても隔離は続き、同法を作り直した「らい予防法」が廃止されたのは96年にまで遅れた。2001年、同法を違憲とする訴訟で元患者ら原告が勝訴し、国はハンセン病政策の誤りを認めた。
静岡新聞社