「株をやるのは頭の体操」 投資語録を多数遺した石田禮助(下)
投機の出動も、撤退も半年早いのが石田流
常に誰よりも先を読み、「早い見切り」で投資を実践し、成功をおさめた旧三井物産の石田禮助(れいすけ)。その後も続く石田の投資人生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。 「早い見切り」を投資で実践 商社マンのカリスマ・石田禮助(上)
石田禮助は昭和11年(1936年)三井物産常務として帰国すると経営の中枢に入り、同14年(1939年)には代表取締役社長に就任する。時に53歳。すでに戦時体制に入り、商社の活動もおのずから制約され、商売の妙味も薄れていく。同18年(1942年)には交易営団の総裁に担がれる。同営団は貿易業務を一元化しようという狙いで作り出された国策会社だった。しかし、世界大戦末期の折から業務らしい業務もなく、石田としても才覚をふるいようがなかった。 昭和21年(1946年)同営団を退任、株を本格的に始める。財産税をがっぽり取られた“痛さ”から株を財産保全の手段にしようと考えた。昭和38年に国鉄総裁に就任するまでの十数年間は石田が株式売買を最も活発に行った時期である。 週に1、2回、自宅のある神奈川県国府津から兜町に通勤した。このころの石田は投資家兼農業といえよう。JR国府津駅から約2キロの地に石田宅はあって、3,500坪の敷地(主にみかん畑)に田んぼが3反、山が2町歩、「シンプル・アンド・クリーン」を信条とする石田家は自給自足体制である。 週刊新潮が「石田禮助氏の株のやり方」を特集するのは昭和38年(1963年、7月1日のことである。石田の機関店である山叶証券(現みずほ証券)の二木専務は石田の投資法について「とにかくああいう株のやり方をされる人は、ほかにいません」と前置きしてこう語っている。 「合理的な株式によるレジャーといいますかなあ。いや、頭の打診というか、“おれの考えが正しいか、世間のほうが正しいか”ということで自分の判断の基準をためすというか、自分の経済研究の反応を株で求めるという、一種の頭脳テストなんでしょう。石田さんの株の歴史というと、もう4、50年でしょう。戦後はことによく見えました」 石田は売りから入る。「この株がこんなに上がるのはおかしいよ。いくら成長株だからといって国際収支を見て見給え」などと言って売る。売って、値上がりしてもさらに売る。ナンピン売り(信用取引のカラ売りのことで、値上がりしたときに売り増して売りコストを上げること)を続ける。半年くらいたって兜町の熱が冷めて下がり始めると、「どうだ、おれの言った通りだろう」といって買い戻しに入る。出動するのも、撤退するのも人より半年くらい早いのが石田流。 石田は国鉄総裁の月給(税込み32万円)の3分の2を返上、就任に際し月給10万円で引き受けた。これを巡っては「スタンドプレーじゃないか」とか「責任逃れだ」などと言った意見も飛び出したが、石田はいまの国鉄総裁の実力、権限は月10万円程度のものと、判断した結果だといわれる。