フィルムカメラ「ヤシカ」、高性能で世界的ブランドに 諏訪地域のものづくりを象徴
かつて下諏訪町、岡谷市に工場があったカメラメーカー「ヤシカ」が京セラ(京都市)に吸収合併されて今年で40年。安価で優れた性能を誇ったヤシカブランドは国内外でヒットし、一般家庭にフィルムカメラが普及するきっかけをつくった。全盛期には3千人を超える社員数を誇ったヤシカは諏訪地域のものづくりの象徴でもあり、元社員たちの心には今なお当時の記憶が強く刻まれている。一方、同社製カメラの修理を続けたり、新たな会社を立ち上げたりする動きもある。記者が所有する同社製のカメラで撮影しながら、今も息づくヤシカを追った。 【写真】ヤシカ諏訪工場でカメラを組み立てる社員
パチリ。鮮やかなモミジの下、小さなシャッター音が響いた。
11月上旬、紅葉の名所で知られる岡谷市長地出早の出早公園。久保寛男さん(80)はフィルムカメラ「エレクトロ35」を手にしていた。かつて勤めたヤシカ製で1966(昭和41)年発売。「まだ動くんだな」。うれしそうに話した。
同市長地小萩に暮らす久保さんは水内村(現・長野市信州新町)出身。職業訓練校の教師の勧めで59年にヤシカに入った。同じ訓練校から10人ほどが就職した。工場があったのは下諏訪町御田町。製糸工場から転用した建屋でもカメラが生産されていた。
入社当時、工場の従業員は約2300人。工場への通勤路となっていた御田町商店街は毎朝、従業員が埋め尽くした。その光景に「すごい会社に入ったなと思ったよ」と久保さん。工場ではベルトコンベヤーで次々と流れてくるカメラを大勢の社員が組み立てていった。
当時の信濃毎日新聞の記事によると、ヤシカは63年に日本の輸出カメラの台数で20%、輸出額で18%を占めるまでに成長。北米や欧州にも販売拠点を設け、香港やブラジルなどにも工場を構えた。
有賀清さん(89)=下諏訪町東山田=は「好きなカメラに携われる」と56年に東京写真短期大学(現・東京工芸大)を卒業し、ヤシカの前身の会社に入社した。設計畑を歩み、8ミリカメラを皮切りに、多くのカメラを設計。警察とともに速度違反取り締まり装置の開発にも関わった。