【本田美奈子.の生き方】マネジャーが忘れ物を取りに病室に戻ると…闘病中にみせた彼女の優しさ
人にやさしく
そういえば、あるとき、こんなこともあった。埼玉県朝霞市の本田さんの出身小学校で開かれた「しのぶ会」で、マネジャーが披露した話。 「『また明日ね』と見送られ、外に出たが、携帯電話を忘れているのに気づいて取りに戻ると、背中を見せてわんわん泣いていた。人にやさしく、人を思うことの大切さ。彼女と出会えたことは、とても大切な思い出です」(朝日新聞埼玉県版2009年3月7日) つらい話ばかりが続くが、私は「病院」という場所は、病気を治療するだけの場所ではないと思っている。そこは人間と人間が交流する場。人としての温かさ、ぬくもりに接する場ではないか。本田さんのエピソードをこうしてつづりながら、改めてそう感じている。 さて、ここで本田さんの経歴について簡単に振り返ろう。1967年7月、東京都生まれ。85年に歌手デビュー。「Temptation(誘惑)」で日本レコード大賞新人賞を受賞し、「1986年のマリリン」もヒットし、アイドル歌手として不動の地位を築いた。ミニスカートにヘソ出しルックで踊っていたこともあった。ひとりでステージに立っても存在感があった。 時代は60~70年代の高度成長期を経て、日本経済がバブルへとひた走った80年代。アイドル人気も熱かった。特に「花の82年組」と呼ばれた歌手は、世代を超えて高い知名度を誇り、「豊作」だった。中森明菜(58)、小泉今日子(58)、石川秀美(57)、早見優(57)、シブがき隊、堀ちえみ(56)、三田寛子(58)……。私もレコードを買いあさったことを覚えている。アイドルの誰もが、昭和特有のエネルギッシュなパワーを兼ね備えていた。本田さんはやや遅れてきた世代だが、やがて転機を迎える。 それが英国発のミュージカル「ミス・サイゴン」日本版(92~93年公演)のオーディション。ヒロインのキムには、約1万2000人が応募した。 実は審査の早い段階から、英国スタッフは「日本版の適任者」として本田さんに注目していたという。「ひたむきで献身的、愛情にあふれたキムそのものだ」という声もあった。 地声が豊かな本田さん。課題は裏声を使った高音域の表現だったが、注意した個所は次には必ず直してきた。「どれだけ練習したことか。できそうでできない偉大なこと」と関係者は振り返る。課題を克服したことで、「アベ・マリア」などを収めたクラシックアルバムの制作へと新しい道も開けた。冒頭に書いたように、やはり努力の人である。 「ミス・サイゴン」の中の1曲に「命をあげよう」がある。あの歌のように、自己犠牲の愛の歌が得意だった。舞台でセットに右足を挟まれ、指4本を骨折しながらこの曲を歌い上げたこともあったという。