「これからの時代、女にも学校が必要」…兄の勧めで進んだ女学校だが、勉強どころじゃなかった。知覧特攻隊に奉仕する毎日。250キロ爆弾を積んで出撃する若者を、何度も見送った。今も世界のどこかに戦死者がいる…生ある限り戦争の愚かさを私は伝え続ける【証言 語り継ぐ戦争】
私は特攻隊員と直接話をする機会はなかったのですが、お世話をした人に聞くと「普通だったよ。めそめそすることもなく、何も文句も言わずに平静にしていたよ」と言っていました。 彼らは、僕たちが行かないと日本を守れない、そう信じていたのだと思います。私たちもこの頃は戦争に負けることは全然思っていなかった。でも、見送る時は体がガタガタ震えていました。 その後、飛行場への空襲が激しくなり、私たちの奉仕は4月18日で終わりました。3週間あまりでしたが、とても尊い経験でした。特攻隊の人たちはかわいそうだったけれど、この人たちがいたからこそ今の平和がある。私たちは感謝するしかないと思います。 実は戦争のことは話したくありませんでした。悲しくなるから、思い出したくも、考えたくもなかった。しかし、世界を見ると、今でも戦争で何の罪もない人が死んでいく。何とか止められないものかと思います。 特攻隊の人たちは何も悪いことはしていないのに、なぜ死にに行かなければならなかったのか。戦争がどんなにつらく悲しいものか。私が経験したことを今の世代に伝えなければならないと考え、生きている限り語ろうと思っています。
南日本新聞 | 鹿児島
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