DeNA・三浦監督〝ハマの番長〟の愛称恥ずかしかった リーゼント頭から清原和博氏の二番煎じに「今では気に入っています」
DeNAをセ・リーグ3位から日本一に導いた三浦大輔監督(50)が12日、東京都内の日本外国特派員協会の会見に招かれ、「ハマの番長」の愛称に強い抵抗があった過去を明かした。 【写真】見事なリーゼントのDeNA・三浦監督 下克上での日本一達成を司会者から「グレイテスト・カムバック」と賞賛された三浦監督は、外国人記者に「ハマの番長」の由来について問われると、「(新聞の)見出しで出たときに正直、第一印象はダサいなって」と苦笑い。「僕らの時代は番長という存在がいなかったので、恥ずかしいと思っていた」と振り返った。 そもそも野球界で「番長」といえば清原和博氏だ。巨人にFA移籍した1997年5月から、写真週刊誌「フライデー」がその動向を追った名物企画「番長日記」を開始。数カ月後に一部スポーツ紙が、快投を続ける三浦監督を取り上げた記事で、リーゼント頭のため2軍で「番長」と呼ばれているとして、「ハマの番長」と命名した。いわば二番煎じだ。 この愛称に本人は強い抵抗を示し、スポーツ紙側に「やめてほしい」と要望したほど。しかし、「小さな女の子に『ハマの番長』と声をかけられたときに、『これはダメだな』と観念した」。あまりの浸透ぶりに、もはや受け入れるほかないと甘受した格好だ。 キャラが立った「ハマの番長」は同年に初の10勝と大ブレーク。オフには新日本プロレスで「nWo軍」の一員としてリングに上がり、テレビ番組でも引っ張りダコとなり、ベイスターズの看板選手から日本一監督にまで上り詰めた。 「『ハマの大魔神』と(球団で先輩の)佐々木(主浩)さんがつけられて、ニックネームをつけられることはいいことなんだ、逆にこの言葉を大事にしていこうと。それからは受け入れられるようになりました。今では気に入っています」とまで言うのだから、何が人生の転機となるか分からないものだ。 (塚沢健太郎)