日本人離れしたボーカルに衝撃!大橋純子との運命的な出会い 痛し痒しだった「たそがれマイ・ラブ」の大ヒット
【Jポップのパイオニア 本城和治の仕事録】 歌い手にとって最大のチャームポイントは「うまさ」よりも「声質」。そう考える本城和治は自分が目指す新しいポップスにマッチする、洋楽的なフィーリングを持ったボーカリストを探していた。その彼が森山良子、尾崎紀世彦に続いて運命的な出会いをしたのが昨年11月に73歳の若さで旅立った大橋純子である。 【写真】がん闘病の末、亡くなった大橋純子さん 「後輩ディレクターが録音したデモテープに彼女の歌が入っていたのですが、日本人離れしたボーカルに衝撃を受けました。黒人ソウル歌手のメルバ・ムーアの曲を本家と同じキーでシャウトやフェイクを入れて歌っていたからです」 すぐに本人と会うと、洋楽カバー8曲を含むアルバムを制作する。1974年のことだ。当時は大橋に合うポップスを書ける作家が少なく、曲づくりに苦労するが、彼女の要望でバンド「美乃家セントラル・ステイション」が結成されると活動は軌道に乗っていく。 「バンドは7人で、彼女のパートナーである佐藤健(キーボード)や、のちに一風堂を結成する土屋昌巳(ギター)ら曲も書ける腕利きミュージシャンが中心でした。土屋くんは尖った楽曲、佐藤くんはマイルドな作品が多く、いいバランスがとれていたと思います」 洋楽センスにあふれた音楽性で〝学園祭の女王〟となった大橋に78年、TBS系3時間ドラマ「獅子のごとく」の主題歌の話が持ち込まれる。阿久悠作詞、筒美京平作編曲の「たそがれマイ・ラブ」だ。それまでのバンドサウンドとは異なる歌謡曲寄りの作風だったため、本人は難色を示すが、美乃家の活動とは切り離した形で発売するとオリコン2位の大ヒットを記録。日本レコード大賞で金賞を受賞し、全国区の歌手となるが、その副作用もあった。 「お茶の間のヒットになったことで歌謡曲のイメージがつき、アルバムのセールスが落ちてしまった。それまで彼女の音楽性にひかれていた洋楽好きなファンが離れてしまったからです。私が担当していたアルバム志向のアーティストにとってシングルの大ヒットはもろ刃の剣。本当はそこそこのヒットがいちばんありがたいのですが、そう都合よくいくはずもなく、両立させることの難しさを常に感じていた気がします」 (濱口英樹) ■本城和治(ほんじょう・まさはる)1939年生まれ。62年、日本ビクターに入社。洋楽ディレクターから邦楽の制作に転じ、ザ・スパイダース、ザ・テンプターズなど11のGSバンドのほか森山良子、尾崎紀世彦、大橋純子らを担当し、ヒット曲を量産。現在、濱口英樹氏が構成した制作回想記「また逢う日まで~音楽プロデューサー本城和治の仕事録」(シンコーミュージック・エンタテイメント)=写真=と2枚組CD(ユニバーサル ミュージック)が好評発売中。