真の開国の立役者、老中・堀田正睦の幕末史における重要性とは?藩政改革とその成果
(町田 明広:歴史学者) ■ 幕末史における堀田正睦の重要性 嘉永6年(1853)6月、ペリー来航によって15年にわたる幕末の動乱の幕が切って落とされた。翌嘉永7年(1854)3月、再来日したペリーとの間で日米和親条約が締結されたが、通商は回避された。この条約は、アメリカに食料や燃料を施して穏便に追い払う、いわゆる撫恤政策の枠内に留まり、鎖国政策をなんとか維持したのだ。 【写真】堀田正睦が佐倉藩主になった後、佐藤泰然を事実上招聘し、当初は客分待遇で開業医をさせ、病院兼蘭医学塾(佐倉順天堂)を創設させた。 しかし、鎖国の維持は難しく、開国は待ったなしと悟った老中阿部正弘は、積極的開国論に転じて、安政の改革を断行した。その中心的役割を担ったのが、海防掛の岩瀬忠震であった。その阿部老中からバトンを引き継ぎ、老中首座として日本の開国に道筋を付けたのが佐倉藩主・堀田正睦(まさよし)であった。堀田は阿部の政策を踏襲しながら、通商条約の締結に大きく舵を切り、その実現に奔走したのだ。 今回は5回にわたって堀田正睦にフォーカスし、その生涯を追いながら、堀田の決断がいかに日本の開国にとって必須であったのかを明らかにしたい。そして、堀田の幕末維新史上の重要性に光を当てることによって、真の開国の立役者が堀田であることを紐解きながら、歴史の実相に迫りたい。
■ 堀田の生い立ちと藩主就任 文化7年(1810)8月1日、堀田正睦は佐倉藩の7代藩主正時と側室源田芳(よし)の間に、江戸藩邸で生まれた。翌8年(1811)4月10日、正時が病死したため、正愛(まさちか)が8代藩主に就任した。実は、正時は6代藩主正順の弟であり、正順の養子正愛が幼児のため封襲した経緯があった。 正愛は正睦を世子(次期藩主)とし、藩主の座を正時の血統に戻す意向を示した。結果として、正愛には継嗣がなく、文政7年(1824)、正愛の重病時に正睦を世子に決定したのだ。 しかし、藩政を握る老臣金井右膳は、堀田一族の長老で若年寄・堀田正敦(近江国堅田藩主)の子である正脩(まさなが)の藩主擁立を画策した。それに対し、物頭渡辺弥一兵衛ら下級武士が血統維持を訴えて、金井に反対を表明した。そもそも、渡辺らは堀田を少年期から大器として見込んでおり、金井の策略を阻止することに成功した。 文政8年(1825)、堀田は9代藩主に就任し、それまで正睦擁立に腐心してくれた渡辺を側用人に抜擢したのだ。そして、天保3年(1832)には、渡辺は老臣に昇進し、藩政改革(財政再建、文武奨励等)の責任者となった。