39年前の鉄道被災「風化させない」 能登半島地震犠牲の元同僚悼む
39年前、石川県の能登半島北部を走っていた旧国鉄の列車が大雨の影響で脱線する事故が発生した。7人が死亡した惨事を風化させまいと、復旧作業に当たった元職員が「語り部」として、現役のJR社員らに当時の状況を伝えている。元日の能登半島地震では当時の同僚が犠牲に。「災害はいつ起きるか分からない」。被災の記憶を語り続ける。 事故は1985年7月11日午後2時21分、石川県穴水町の能登線で起きた。盛り土が崩れ、急行列車の4両中3両が線路から約7.5メートル下の水田へ横転し、乗客7人が亡くなった。(共同通信=川口巧) 事故現場には遺族らが慰霊碑を建立。能登線の廃線後は、JR西日本の社員らが毎年、発生日の前に碑の清掃や周辺の草刈りを行っている。元日の地震で碑が落下したが、社員らが元に戻した。今年も6月下旬、社員やOBら約50人が現場を訪れて手を合わせた。 このうちの一人、中能登町の須鹿渉さん(70)は当時、七尾保線区の技術係だった。事故の知らせを受けて現場へ急行する中、付近から立ち上がる煙を見て「大変なことをしてしまったと青ざめた」と振り返る。遺体を搬送する時の重みが今も忘れられないという。
復旧作業を急ぎ、4日後には運転を再開させた。「急いで復旧しないと災害を機に切られる(廃線にされる)と思った。地域のために、それだけは避けたかった」と振り返る。 これまでにも「語り部」を務めたことがあったが、今年は特別な思いで現場に来た須鹿さん。復旧作業にともに当たった土中健一郎さん(74)=輪島市=が、元日の地震で犠牲になったからだ。 須鹿さんによると、復旧作業の正担当者だった。「県公表の犠牲者名を見てショックだった。土中さんへの思いも込め、慰霊碑に手を合わせた」。JRから能登線などを引き継いだ第三セクター「のと鉄道」に在籍時、2007年の地震時にも復旧に当たったという土中さんをしのんだ。 須鹿さんは今も鉄道工事の関連企業で若手の安全指導を担っている。「事故を知らないどころか生まれていない世代がほとんどだが、忘れてほしくない」。同僚への思いを胸に、安全を誓った。