父の思いを娘が受け継ぐ 震災遺構と共に歩んできた13年 “父の体験をそのまま伝えたい” #知り続ける
岩手めんこいテレビ
東日本大震災からまもなく13年。 震災の記憶を伝える語り部の父とその姿を見て育った中学生の娘。 岩手・陸前高田市で被災したビルと共に生きる親子の思いを取材した。 東日本大震災の津波で大きな被害を受けた陸前高田市。 かつて街の中心部だった場所に震災から13年経った今も1つの建物が残されている。 震災の語り部 米沢祐一さん 「1階から2階、2階から3階へ上ってる間にどんどん津波が迫ってきて、屋上に行ったときには、もう津波が超えそうになって。ハシゴで煙突まで上ってギリギリ助かった」 米沢さんが震災前に包装資材の販売店を営んでいたビルは、現在、震災遺構として訪れた人に津波のおそろしさを伝える学びの場となっている。 震災の語り部 米沢祐一さん 「揺れた時に自分はハッと思って倉庫の外に出た。このまま揺れが収まらないのではないかというくらい長く揺れていた」 語り部を務める祐一さんの様子を少し離れた場所から見ていたのは娘の多恵さん、13歳。 祐一さんの娘 米沢多恵さん(13) 「とにかくお父さんが体験したことを、なるべくそのまま伝えるような感じがいいなと思う」 父 祐一さんの体験を次の世代に伝えたいと、いま語り部になるための準備を進めている。 震災の語り部 米沢祐一さん 「防災への興味や意識は高くなって欲しいと思っていたが、実際に語り部をやりたいと言うとは思ってなかった。すごいうれしかった」 震災が起きる約1か月前の2011年2月8日に生まれた多恵さんは、震災当時の記憶はない。 震災の語り部 米沢祐一さん(2018年) 「どんどん上がってきて、ここまで来たの津波が。だから多恵ちゃん(のいる場所)なんか海の底だよ、まわり全部津波だから」 幼い頃から何度もあのビルを訪れ、父 祐一さんの体験を繰り返し聞いていた。 震災の語り部 米沢祐一さん(2018年) 「やっぱり忘れてほしくない。津波は怖いということをとにかく教えたい。陸前高田のためにと思って育ってくれるんじゃないかと思う」 祐一さんの娘 米沢多恵さん(当時7歳) 「将来の夢は気象予報士とお医者さんになりたい」 人の役に立つことがしたいと話していた多恵さん。 小学3年生の時には陸前高田市が地域防災の向上を目的に始めた防災リーダーの養成講座を受講。 半年かけて防災に関する知識と技術を学び「キッズ防災マイスター」に認定された。 祐一さんの娘 米沢多恵さん(当時8歳) 「防災はこんなに命を救うんだぞって、友達に教えたい」 2024年2月23日。 震災の語り部 米沢祐一さん 「これから東京の立教大学の学生さんがいらっしゃって、2011年3月11日の津波の語り部を私がします」 米沢さんが語り部の活動を始めたのは、震災から半年後のこと。 これまでに6000人以上の人が震災遺構の「米沢商会ビル」を訪れた。 震災前、ここにどんな街があり、どんな人が暮らしていたのか。そしてあの日、なぜ多くの命が失われたのか。 訪れた人の胸に米沢さんの言葉が刻み込まれる。 震災の語り部 米沢祐一さん 「いつどこで何があるか分からないので、ちょっとずつ防災に対する意識を高めていってもらえたらなと思います」 中学生となり勉強や部活で忙しい中でも、多恵さんは祐一さんの語り部活動に同行し、何をどんな言葉で伝えるかしっかりと耳を傾けている。 祐一さんの娘 米沢多恵さん 「(震災を)体験していないので、津波がどう来たとか、どういう音だったかは再現できない。ちゃんと事前に聞こうと思った」 震災の語り部 米沢祐一さん 「何を伝えたいのか今はまだわからないと思う。そのうちに自分が伝えたいことはこれなんだと分かって来るんじゃないかと思う」 被災したビルとともに親子で歩んできた13年。 ふるさとを襲った悲劇と自らの体験を伝え続ける父の思いを、震災の年に生まれた若き語り部が受け継ぐ。
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