江戸時代のマネー東西比較 江戸はその日暮らし 大坂は西鶴が倹約のススメ
さまざまなマネー論が語られる現在ですが、町民たちが大活躍する江戸時代におかねはどのように稼ぎ出され、活用され、どのような存在として考えられていたのでしょうか? 2大都市、江戸と大坂では、ちょっと考え方が違ったようです。代表例を挙げて、当時のおかねについて考えてみたいと思います。(解説:ファイナンシャルライター・瀧健、監修:井戸美枝)
江戸っ子はその日暮らし、蓄えなんて気にしない
「江戸っ子は宵越しのかね(銭・ぜに)は持たない」という言葉を聞いたことがありますか? おかね執着しない、気っぷの良い江戸っ子は、おかねは使うためにある。翌日まで持っていられるおかねがあれば、今日中に使い切ってしまうということでなのしょうか。そうなの? と納得できない顔でもすると、 「かねよりももっと大切なものがあるんでぃ、それがわかんねえのかい」と怒鳴られ、責められそうです。 天下を統一し、江戸幕府を打ち立てた徳川家康は、新しい都市、江戸をつくるために、まずは公共工事による膨大なインフラ整備をしました。家康の家来である諸国の大名が、お金と人材を出し合い、こうした天下普請が行われました。さらに参勤交代によって諸大名は江戸と国元を交互に住むよう命じられていたため、江戸にはたくさんの人が集まったのです。 江戸の地積の身分別割合は、幕末の数値で、武家屋敷が6割、町屋2割、寺院1割5分、神社5分。100万都市江戸の半分は武家でした。武家が発注する仕事だけでも膨大な量と考えられ、大量消費には大量供給で江戸は栄えていきました。 当然、仕事もたくさんありました。当時は職人や商人でさぼらずに仕事をしていれば、そこそこの生活が送れました。天候や病気で仕事ができないときのための蓄え以外は、使い切ってよかったのです。食費の中でも米や味噌などは掛けで、盆と暮れ年2回の支払いですから、現金が手に入ればお楽しみに使い切っても、また稼げばよい。江戸は飲む、打つ、買う、なんでもありの歓楽都市でもあったのです。それが「宵越しの金は持たない」という言葉につながっているのでしょう。 その場限り、自分限り、一代限りとして消費するならば、「宵越しの金は持たない」となるのは当然のことにように思えます。つまりは江戸は景気がよかったのです。