「素手でドブさらいやトイレ掃除を命じられ…」3度目の逮捕「羽賀研二」が語っていた「辛酸の獄中生活」 懲罰房に10数回、全財産は「6万円」に
貴様、なんぼのもんじゃあい!
13年前、自分はジュエリーブランドを手掛け、展示会のため年200日以上は全国を飛び回っていました。 初めて逮捕されたのは、四国の松山空港に降り立った直後でした。手荷物を受け取った瞬間、大阪府警の捜査員に囲まれ、空港の派出所に連れて行かれた。 「恐喝で逮捕状が出てんのや。まぁ、署に行ってから、細かい話は聞くわ。とりあえず手錠を持ってきたから。あと逮捕状、これやから」 と、刑事に言われて手錠をかけられた。テレビのドッキリかと思ったくらい、本当に何が起こったのか分かりませんでした。 最初の2、3カ月は府警本部の留置所に入れられました。取り調べで、刑事はテーブルをガンガン叩き、耳元で、鼓膜が破れるくらいの大声を上げてきます。 「おらあ、貴様、なんぼのもんじゃあい。オノレがやったんじゃろおお!」 そう怒鳴ったかと思えば、テーブルをドーンって蹴飛ばすから、カラダに当たる。それを承知でわざとやってくるのです。 とにかく認めろと徹底的に口説かれました。違うことは違うと説明しましたが、 「お前な、恐喝を認めたら執行猶予がつくゾ」 「恐喝を認めたら、株の方では逮捕せんゾ」 などと刑事に唆(そそのか)された。 それでも否認を続けたので、詐欺で再逮捕されました。最終的に恐喝は未遂の容疑となり、二つの罪で起訴。執行猶予はつかず、6年の実刑で服役しました。 〈華やかな世界から一転、塀の中での暮らしが始まった羽賀が収容されたのは、奇しくも生まれ故郷にある沖縄刑務所だった。〉 刑務所では、芸能人だったこともあってずっと4畳半一間の独房生活でしたけど、作業や食事の時間は他の受刑者と関わることも多かった。なによりオヤジさん、刑務官のことをそう呼ぶ慣わしでしたが、彼らと波長を合わせることが最も大事なことでした。あからさまに嫌がらせをしてくる人もいましたからね。 自分は、溶接工場といって、バーベキューセットやベンチを作る仕事を担当していましたが、ドブさらいやトイレ掃除ばかりを命じられていました。 手袋もなしにスコップで下水溝の掃除をするんですが、工場から流れてきた鉄片やら木片、なんだか分からない突起物が紛れていて、うっかり触れば手を切ってしまう。 とても不衛生で危険な作業だから、他の受刑者がやることはなかったのですが、オヤジに言わせれば、 「オマエにはケガをされたら困るから、溶接の作業はやらせられない。代わりにゴミ処理や分別をやれ」 その一環としてドブさらいを命じられたわけです。 ひとつの重さが30~40キロはある土嚢を作らされて、たった一人で50袋ほど運ばされたこともありました。 それを見た受刑者から、 「あのオヤジ、やたらとアンタに対してキツイよな」 「よく我慢しているね」 って、声を掛けられたこともありましたね。 不条理なことをされるとやっぱり人間ですからね、オヤジとは何度か衝突した。刑務官へは、基本的に「はい」としか言ってはいけないので、疑問を投げかけるだけでもアウトなんです。 「オヤジ、オレのどこが気に入らないんですか」 なんて自分がオヤジに尋ねたら、もう終わりです。 「はい、懲罰!」 と言われ懲罰房に送られます。収容期間は5日間から1週間ほど。起きてから寝る時間まで一日中、ずっと部屋で着座です。胡坐(あぐら)をかいてもよいのですが体に堪える。それでも異議を唱え続けたので、十数回は懲罰を受けたと思います。