ぎりぎりで死を免れた兵曹長 石垣島事件を語るキーパーソン~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#38
アメリカの国立公文書館に収蔵されている、石垣島事件の法廷写真。弁護人に付き添われて判決を宣告される写真の人物が誰かを突き止めようとしていたところ、1枚の写真に写る男性の遺族に行き着いた。一審で死刑となり、その後、重労働40年に減刑。およそ10年をスガモプリズンで過ごした、その男性はー。 【写真で見る】ぎりぎりで死を免れた兵曹長
遺族から架かってきた電話
誰の写真かが特定できたのは、石垣島事件の当時、兵曹長だった炭床静男だ。炭床静男兵曹長は、戦犯たちが自ら戦犯裁判について記録を残した「戦犯裁判の実相」で、石垣島事件についてまとめている人物だ。裁判の概評として、 「本事件は、横浜全裁判中もっとも復讐的にして、残忍な裁判なり。いかに頭脳の良い裁判官にもかかる判決を出す為には相当に苦労せるものと思う。再審に際しても、第八軍で減刑になりし者より、GHQの再再審の結果、減刑になりし者が軽くなる等最後まで矛盾撞着に満つ」(「戦犯裁判の実相」より 巣鴨法務委員会1952年) と書いている。
31歳で死刑を宣告
炭床静男は、1916年(大正5年)、鹿児島に生まれた。1933年、17歳の年に佐世保海兵団に入団以来、終戦まで海軍にいた職業軍人だ。海軍兵学校で教官を務めたこともある。死刑を宣告されたのは、誕生日の3日前、ぎりぎり31歳の時だった。 「すみとこ」という名前は珍しいので、住所地付近の同じ姓の人を当たっていくと、ご高齢の女性とそのお孫さんがお住まいの家に行き当たった。聞いてみると「炭床静男さん」を知っているという。写真を見てくださるということだったので、背景をぼかして、顔だけの確認が出来るように加工した写真を用意して、名刺を添えてお送りした。 およそ1ヶ月後、携帯電話に知らない番号から着信があり、出てみると、「炭床といいます」と男性が話したので、びっくりした。炭床静男の三男、浩さんだった。私が写真をお送りしたのは、遠縁にあたる方で、そこから浩さんの従兄弟に連絡があり、浩さんに行き着いたということだった。取材を受けていただけるか聞いてみると承諾してくださったので、準備に取りかかった。