<挑む・センバツ2023東邦>強さの源流/上 1989年・平成最初の優勝 「鬼」監督の言葉信じ /愛知
1989(平成元)年の第61回センバツ。前年のセンバツで準優勝に甘んじた東邦は2年連続で決勝に進んだ。対するは元木大介選手や種田仁選手ら後にプロ入りする選手4人を擁する上宮(大阪)。延長に入り、1点を勝ち越された東邦は追い詰められていた。 現・大垣日大監督で当時、東邦を率いていた阪口慶三監督(78)は「戦力は上宮の方が上。ここで決めるしかない」と勝負を仕掛けた。延長十回裏、無死一塁からバントではなく、ヒットエンドランのサイン。だが、その強攻策が裏目に出て併殺を喫した。 2死走者なし。甲子園に不穏な空気が漂ったが、当時のエース左腕、山田喜久夫さん(51)はキャッチボールを始めた。山田さんは「同点にすることはできる。十一回を投げる準備をしておこうと思った」と振り返る。その様子に阪口監督も「山田はまだ戦う姿勢を見せていた。諦めていない気持ちが伝わってきた」と勇気づけられたという。 初優勝まであとアウト一つとなり、突如制球を乱した上宮の投手を東邦は攻め立て、2死一、二塁のチャンスを作った。そして、原浩高捕手の中前打で二塁走者が還り同点。上宮の捕手が二、三塁間の走者を刺そうと三塁へ送球し、三塁手の種田選手が二塁へ転送したが、ややそれた。外野に転がったボールはカバーに入った右翼手の手前でイレギュラーバウンドし、そのまま誰もいない外野の芝に転がった。走者がホームインし、3時間9分に及んだ死闘は幕切れを迎えた。 山田さんと同点打を放った原捕手は昭和最後だった前年のセンバツ決勝で涙を流したバッテリーだった。その悔しさが明暗を分けた。「まさに執念。最後まで諦めない気持ちが本当に勝利を呼び込むのだとあの甲子園で教えてもらった」と阪口監督。試合終了のサイレンが鳴るその瞬間まで希望を捨てずにプレーする屈強な精神は、日ごろの練習で培われていた。 当時の阪口監督は厳しい練習と指導で選手を鍛えることから、「鬼」と呼ばれていた。毎日4~5時間の練習はいわば修行のようなもの。ナイター設備などはなく、日が暮れると当然のようにボールは見えなくなる。阪口監督は「打球音をよく聞け。心の目で見て取れ」と声を張り上げ、手を抜く選手には容赦なく怒鳴った。 ただ、理不尽とも思えるようなつらい練習でも、選手たちは「日本一になるためには日本一の練習が必要」という阪口監督の言葉を信じて必死に食らいついた。この練習こそが、決勝での勝利につながった。実際にあとアウト一つまでの劣勢だったが、山田さんは「負けることを考えていなかった。だって日本一の練習をしてきていたから」と落ち着いていたという。 山田さんは89年のプロ野球ドラフト会議で中日に5位指名された。先発や中継ぎで活躍し、引退後は、横浜と中日で打撃投手を務めた。現在は中日の本拠地バンテリンドームナゴヤ(名古屋市東区)の近くで「喜来もち ろまん亭」というわらび餅屋を経営している。 野球には直接携わっていないが、母校が甲子園に出るたびに、劇的な優勝を思い起こして懐かしむ。「粘り勝つという野球は東邦の良い伝統。きっと後輩たちに引き継がれていると思うよ」。今大会も喜びが来るように願っている。【森田采花】 ◇ ◇ 第95回記念選抜高校野球大会への出場を決めた東邦は、平成最初と最後のセンバツを優勝で飾り優勝回数は5、通算勝利数も56と、ともに単独最多で「春の東邦」と呼ばれる。強さの根源は、どんなに劣勢でも勝つことを諦めない「粘る野球」だ。その不屈の精神は34年前に既に根付いていた。当時から引き継がれる強さの源流に迫る。