語られてこなかった障害者の戦争体験 日本や独ナチスでも抑圧の歴史
戦後70年を迎えた今夏は、戦争関連のさまざまな報道や出版などが相次いだ。しかし、けっしてこれまで多くは語られてこなかった戦争体験がある。障害者から見た戦争だ。障害者に対する法制度がなかった戦時中、彼らはどのような体験をし、どう戦争を見つめたのか。「障害者と戦争」などをテーマにしたNHK Eテレの「シリーズ・戦後70年」を手がけるチーフ・プロデューサー、熊田佳代子氏に聞いた。 今だから知っておきたい 4月施行「障害者差別解消法」が目指す社会
真っ先に切り捨てられるのは自分たち
いま障害者は、ある危機感を持っていると熊田氏は言う。「戦争などの有事の際には障害者は真っ先に切り捨てられる」というものだ。 日本の障害者運動をリードしてきた藤井克徳さんは「障害者がすべての前触れになる」とよく話すという。藤井さんは、自身も視覚障害があり、日本障害者協議会の代表を務める。世の中の“空気”が変わった時に真っ先に切り捨てられる、生きている価値がないとして「価値付け」の対象になってしまう、そういう「変化」が一番早く押し寄せるのは障害者なのだと。「平和じゃないと生きられない」ということを、先鋭的に肌身に感じているのが他ならぬ障害者たち自身だという。 これまで障害者の戦争体験はあまり語られてこなかった。 戦前は障害者に対する差別があり、家族も家に隠すなどして表に出したがらなかった。昨年6月に沖縄戦を扱った番組で、熊田氏らは沖縄の障害者の人たちの証言を集めたが、激しい地上戦が繰り広げられた沖縄だけに、あまりにも辛い体験だったことに加え、「大変なのは障害者だけじゃない」という状況で、思いを胸に閉じ込めてきた人が多かったのだという。 それがここ数年、生き残った障害者が少しずつ取材に応じ始めている。自分たちの年齢も考えて「伝え残さないと」という切迫感と、時代の空気に対する危機感から声を上げ始めているのだと、熊田氏は感じている。
日本兵「邪魔になるから殺せ」
沖縄戦をはじめとして多くの市民が犠牲になった沖縄では、障害者もまた、凄惨な体験をした。昨年6月の番組で、その体験が語られている。 1944年10月10日の「10・10空襲」。米軍機の大群が空を覆う中、左足にマヒがあった男性は一人で逃げられない。近くに爆弾が落ちたが、死を覚悟しながら何とか生き延びた。 沖縄戦が始まった4月。那覇から北へ避難しようとした家族には2人の障害者がいた。家族でサポートしながら逃げる最中、「障害者は足手まといになる」と周囲の人たちから嫌味を言われることもあった。そんな中、視覚障害のある娘は父親に「私たち2人は置いていっていい」と告げた。父親はそれでも最後まで家族を守り続けた。 障害を理由に殺されかけた事例もある。脳性小児まひで体に障害がある女性は、幼年時代、母親とともに満州から山口県に引き上げてきた。そこへ日本兵がやってきて「障害のある子供は有事の時に邪魔になるから殺せ」と母親に青酸カリを手渡したという。 戦争中、障害者は「穀潰し」呼ばわりされることもあった。右半身にマヒがある男性もその一人。障害のため、兵隊になって国のために戦えない。徴兵検査で不合格になり、「国家の米食い虫」と言われた。 そうした負い目や軍国教育の影響もあり、国のために戦いたいと考えた障害者もいた。障害があっても人間魚雷になら乗れる、と訴えたり、また視覚障害者は耳がいいので敵機の音を聞き分ける防空監視員になったりして、なんとか役に立ちたいと願ったのだ。