〈「共感」ベース社会の落とし穴〉内田樹
近代以前に戻る社会?
でも、「共感」ベースで政治的判断を下すことについては、それがいかに危険なことかはしっかりとアナウンスしなければならないと思う。「共感」ベースで政治的判断を下すということは、理解も共感もできない人たちとのコミュニケーションは初めから放棄するということだからである。このリスクについては左派の人も決してそれほど神経質であるようには見えない。 この30年くらい人々は「理解でき、共感できる身内」がどこからどこまでか精密な境界線を引くことを「アイデンティティの確立」と称して、その不毛な仕事にひたすらうちこんできた。 そうやって「身内」とはわずかな目くばせや符牒だけで身内認定できる技術を磨いてきた。たいした達成だと思う。けれども、そうやって孜々として共感の輪を創り上げていたら、気がついたら「身内」以外とは意思疎通が困難になってきていた。 その「身内」認定にしても本人が「あいつはオレと同じケミストリーの人間だ」と思い込んでいるだけで、一種の関係妄想である。 非正規雇用の若者が「経営者目線」を内面化したり、年収200万の人間がIT長者に喝采を送ったりする光景は今では珍しくないが、先方は別に「貧しい身内」を内輪のパーティに呼ぶ気なんかありはしない。 近代市民社会がそれまでの部族社会から脱却できたのは「共感ベース」を廃して「社会契約ベース」にしたからである。近代以前に戻ってどうしようというのだろう。
内田樹・思想家