<日々新た>龍谷大平安・川口コーチの挑戦/中 甲子園準優勝⇨プロ0勝⇨女子野球指導 回り道も引き出しに /京都
城陽市出身の川口知哉(43)は、平安(2008年度から龍谷大平安)にとって「救世主」と言える存在だった。 春は1980年、夏は90年を最後に甲子園から遠ざかっていた同校へ95年に入学。その年の夏には背番号「1」を背負い、長身の左腕から投げ込む140キロ超の速球と切れのある変化球で三振の山を築いた。 96年秋の近畿地区大会でベスト8に進み、97年のセンバツに出場。1回戦で星稜(石川)に勝ち、春の甲子園に23年ぶりの校歌が流れた。春2勝でベスト8入り、同年夏は1回戦から5試合を勝ち上がり、決勝で智弁和歌山に敗れた。4番打者でもあった川口の大会投球数は820に達した。 1927(昭和2)年夏に甲子園初出場を果たして以来、強豪であり続けた平安。その最も苦しい時代に川口が終止符を打ち、93年の就任から試行錯誤を繰り返していた原田英彦監督(62)の指導も、ようやく軌道に乗っていく。 ドラフトでは4球団競合の末、1位指名でオリックスに入団。しかし、華やかなスポットライトを浴びてのプロ入りは、長い苦闘の始まりでもあった。制球難を指摘され、度重なるフォーム改造、肩の不調。ボールの投げ方がわからなくなり、体が動かせない「イップス」にもなった。かつての球威が戻ることはなく、一つも白星を挙げられないまま2004年オフに7年間のプロ生活を終えた。 それでも、全く投げられない状態から少しずつ体を戻し、02年には7試合1軍のマウンドに立って先発も経験したことは、川口にとって大きな財産だった。わらにもすがる思いで周囲に聞いた多くのアドバイスは「自分には合わなくても、一つの考え方として自分の引き出しを増やすことができた」。 10年にリーグ戦が始まった日本女子プロ野球には、休止前の20年まで、監督や巡回コーチなどさまざまな指導的立場で関わった。相手を徹底分析して弱点を攻めれば勝率が高くなること、助言を求められた時に答えに詰まらないため、普段からどの選手にもまんべんなく目を配る必要があることなど、多くを学んだ。男女の心理の違いにも、多くの気付きがあった。 女子選手らを教えるうちに、自分を育んでくれた高校野球への思いが次第に募っていった。13年に元プロ選手の高校生指導に関する障壁がほぼなくなったこともあり、講習会を受講して指導者資格を取得。「その時」を模索する中で、「自分たちが初めて甲子園へ行けたのは川口のおかげ」と公言する原田監督から誘いがかかった。龍谷大平安中・高の職員として、監督をサポートする生活が22年4月にスタートした。【矢倉健次】 〔京都版〕