<全員野球・センバツ23・社>大舞台が選手伸ばす 初出場時監督・森脇さん振り返る /兵庫
◇現チーム「展開先読み練習」 19年ぶり2回目のセンバツ出場を決めた社は、初出場の2004年にベスト4に進出し、甲子園を沸かせた。当時の監督でОBでもある森脇忠之さん(65)は「大舞台が選手を大きく成長させた」と振り返り、現在のチームを「状況に応じたプレーができる」と評価。後輩たちの活躍に期待を寄せている。【石川隆宣】 ◇当初「覇気ない」 04年春。甲子園のアルプススタンドや内野席は社を応援する「青い帽子」で埋まった。1試合のバスは110台に上り、駐車場に入り切れないほどの大応援団だった。センバツを決めた過程を森脇さんは「秋の県大会は3位。近畿大会は、レベルの高い大阪2位の上宮太子と初戦で当たり、『くじ運がないな』と思った」。近畿大会ではノックバットを忘れるなど平常心を失いかけていたが、選手たちは伸び伸びとプレー。初戦を予想しなかったコールド勝ちで勢いに乗り、決勝では敗れたものの、強豪の大阪桐蔭を一時はリード。最高の状態でセンバツを迎えるはずだった。 だが、チームをアクシデントが襲う。直前の2月。守りの要の正捕手が、体育科必修のスキー授業で転倒し、鎖骨を骨折した。一塁手を捕手にコンバートするなど「開き直り」が奏功。センバツでは、けがの選手も伝令の大役をこなし、2試合連続で延長戦を制すなど、チームは4強と躍進した。 当初は「覇気のない子たちだな。もっとガッツをみせてほしい」と思っていたという。チームは軟式野球の出身ばかり。試合での緊張や動揺も懸念したが「甲子園ではどこ吹く風の、落ち着いたプレー。采配を選手がカバーしてくれた」と目を細めた。 ◇現監督は教え子 社の山本巧監督(50)は教え子の一人。新入生時を指導したが、「当時のメンバーはみな能力が高く、甲子園を狙えると思っていた。秋の紅白戦は上級生相手に大差で勝った」と思い出す。森脇さんは別の高校に異動していたが、山本監督が社3年の夏。春の県大会で準優勝し、夏の甲子園が期待されていたが、5回戦で惜敗した。チームメートは「3年がみな泣く中で、山本だけが泣かなかった。よほど悔しいのだと思った」と振り返る。1990年7月27日。山本監督は今も、車のナンバーにこの数字を刻み込むほどだ。 森脇さんの母校のチームを観察する眼は鋭い。2022年夏の甲子園初出場も果たしたが、それまでは近畿大会や県大会であと一歩のところで、涙をのんだ苦い経験が生きていると分析する。「コミュニケーションを取り、野球をよく知っている。展開を先読みし、練習していると思う」と話す。ファーストが打球を弾いても、投手は止まらず、バックアップに一塁ベースへ走り、間一髪アウトにする。意表を突くタイミングで、サインを使った二塁走者へのけん制。そんなプレーに社のしたたかさを感じるという。 森脇さんは「社で育ててもらい、人としての原点も社高校にある」と話す。社では校長も務めたが、19年春からは春夏の甲子園出場8回の神港学園から請われ、総監督としてノックバットも握る。「社に追いつき、追い越せでチームづくりをしている」と古豪復活に挑む。 野球王国・兵庫からは今回、報徳学園も出場する。「04年の出場時も、報徳と一緒の出場だった」といい、両校ともに「自分たちの野球を存分に見せてほしい」とエールを送る。 〔神戸版〕