科学が「タコツボ化」した結果、「大発見」を逃してしまう…よくある「失敗の構造」
なぜ組織の上層部ほど無能だらけになるのか、張り紙が増えると事故も増える理由とは、飲み残しを放置する夫は経営が下手……。 【写真】人生で「成功する人」と「失敗する人」の大きな違い 12万部ベストセラーとなっている『世界は経営でできている』では、東京大学史上初の経営学博士が「人生がうまくいかない理由」を、日常・人生にころがる「経営の失敗」に見ていく。 ※本記事は岩尾俊兵『世界は経営でできている』から抜粋・編集したものです。
人間好奇心起源論:科学研究の近視眼が発生する合理的な理由
もちろん、大部分の科学者(文系・理系どちらも)は幸いにもこうした非コペルニクス的思考に毒されてはいない(私の観察範囲での主観的判断に過ぎないが)。 また、典型的には数学にみられるように、科学者の中で尊敬されている度合いが強い分野ほど、掲載雑誌の格にこだわる傾向は弱くなるようだ。いずれにせよ、論文掲載という側面ひとつとっても、目的と手段の転倒によって科学上の大発見を逃してしまう可能性があるのである。 また、一流国際学術雑誌掲載至上主義という非コペルニクス的態度から脱したとしても、あるいは地動説や進化論や相対性理論といった大発見を目指して真摯に研究に取り組んでいたとしても、部分最適という別の経営の失敗によって科学が停滞することもある。 多くの人は、別々の研究領域からもたらされる科学的な発見は、それぞれ独立だと思っている。こうした発想の基礎となるのは、「哲学などの古代より存在する学問分野から、時代の要請に合わせて新しい分野が枝分かれしていく」というラッセル的学問観である。 学問分野が枝分かれしていくうちに、生物の系統樹が交配不可能なほど細分化していくのと同じく、ひとつの研究分野が他分野と交配不可能な新たな種として成立する。 この段階では新たな学問分野に特有の研究対象・研究手法・学術団体が一通り揃う。そのため、この新たな学問分野において、研究成果の被引用数が増えるという「繁殖」のためには、特定の研究対象に特定の研究手法で接近し特定の学術団体で発表するという「遺伝子」に従う必要が出てくる。 こうして科学はどんどん細分化・タコツボ化していくわけである。 もちろん、特定の学問領域の関心が別の学問領域の関心とまったくの無関係であれば、こうした細分化・タコツボ化はむしろ望ましい。 しかし人間が知りたいことなど本当はどこかでつながっている。そもそも、科学という試み自体、人間の外部にあるものを理解しようとしているように見えて、ある意味では人間の思考そのものを理解しようとしているのだから当たり前である。 一見すると人間の外部にあるものであっても、さまざまな物理的・思想的道具を使って人間による認識を可能にするからこそ研究対象となりうる。真の意味で人間の認識の外部にあるものは認識すらできない。どんな学問分野も究極は人間の認識でつながっている。深耕しているうちに別の分野の関心と同じところにいきつくことはよくある。 たとえば、「生物を単なる化学物質の寄せ集め以上にしているものは何か」という疑問に答えるためのヒントが情報科学にあったりする。数学を探究しているうちに哲学と同じ問題を解いていたりもする。脳科学の難問を解くカギがネットワーク科学の中で見つかったりもする。 このように、学問は生物種のように多様化しているというより、人間の認識という山を別々の場所から掘り進めている側面がある。そのため、ある学問の入り口が別の学問の出口とつながっていることがありうる。だからこそ、特定の学問分野のお作法に固執してしまうと、「狭隘な研究に拘泥で」という紋切り型の失敗にいきつく。 すなわち、特定分野での業績追求という部分最適を志向するあまり(「真理などない」という真理にたどり着いてもよいが)真理追究という全体最適をおろそかにする危険性がある。 このように、科学において観察される不合理と不条理の数々は、経営の失敗によってもたらされているのである。 つづく「老後の人生を「成功する人」と「失敗する人」の意外な違い」では、なぜ定年後の人生で「大きな差」が出てしまうのか、なぜ老後の人生を幸せに過ごすには「経営思考」が必要なのか、深く掘り下げる。
岩尾 俊兵(慶應義塾大学商学部准教授)