終戦後も「徹底抗戦」をとなえた「反乱軍」が、「明仁皇太子」を誘拐しようとした理由
明仁天皇(現在の上皇)と、美智子皇后(上皇后)のこれまでの歩みを、独自の取材と膨大な資料によって、圧倒的な密度で描き出した『比翼の象徴 明仁・美智子伝』(岩波書店)が大きな話題を呼んでいます。著者は、全国紙で長年皇室取材をしてきた井上亮さんです。 【写真】皇室記者が現場で感じた、新天皇夫妻と上皇夫妻の「大きな違い」 1945年8月15日の「玉音放送」のあとも、日本の軍部のなかには、徹底抗戦を訴える「反乱軍」がいました。彼らは明仁皇太子を「錦の御旗」として担ぐことを考えます。皇太子の側近たちは、そんな反乱軍の手から皇太子を守るため、手を尽くすのですが……。皇太子をめぐるスリリングなやりとりを、同書より抜粋・編集してお届けします。
徹底抗戦派から皇太子を守れ!
一九四五(昭和二十)年八月十五日正午の「玉音放送」で政府がポツダム宣言を受諾することが国民に知らされた。しかし、それはあくまで政府の告知であり、戦争が直ちに停止するわけではなかった。四一(同十六)年十二月の開戦から三年七カ月余り、日中戦争にさかのぼれば八年もの間、日本は戦争を続けてきた。国家、そして国民全体が「戦争マシン」として駆動し続けてきたのだ。天皇の放送といえどもフル回転していたエンジンの熱を急激に冷ますことはできない。 「宮城事件」はその予兆だった。クーデター、反乱の危機はまだ去っていない。ただ、反乱軍は終戦を決定した天皇を錦の御旗として担ぐことはできなかった。おのずとその視線は明仁皇太子に注がれるはずである。日本中の徹底抗戦勢力が次なる「玉」を掌中におさめるため、ここ奥日光・湯元に進軍してくる恐れがある。皇太子側近でそのことをもっとも憂慮していたのが高杉善治陸軍中佐だった。この日、日光から東京に戻っていた高杉は天皇の放送を聴き終わってすぐ、午後一時に参謀本部の有末精三中将に電話をかけ、軍の動静を尋ねた。 そして有末から「宮城事件」の顚末とともに「東部軍第十四師団の一部にも、皇太子殿下を奉じて、会津若松に立てこもり、最後まで抗戦を継続しようという動き」があることを聞いた。第十四師団の司令部は宇都宮である。湯元は目と鼻の先だ。 ただ、第十四師団主力は太平洋のパラオ方面に出征していた。宇都宮で編成された師団にはこのほか第二百十四、八十一師団があった。第二百十四師団も米軍の本土上陸に備えて千葉県の九十九里浜方面に移動しており、残るは第八十一師団だった。同師団は宇都宮から遠くない地点に主力の歩兵第百七十一、百七十二、百七十三連隊を展開させていた。兵力は一万二千人で、これらが進撃して来たら皇太子を守っている二百四十人の儀仗隊はひとたまりもない。