終戦後も「徹底抗戦」をとなえた「反乱軍」が、「明仁皇太子」を誘拐しようとした理由
皇太子を退避させよ
儀仗隊で各方面から押し寄せる反乱軍を迎え撃つ作戦を立てたが、一万対二百の兵力差では勝負にならないとみて、やはり皇太子の退避を主に考えた。軽井沢方面は宇都宮師団に属する百七十三連隊に遭遇する恐れがあるため、鬼怒川河畔の川俣温泉を退避先にした。その場合、皇太子を田中の馬に乗せていくことになった。田中は南間ホテルに火をかけて逃げることも考えていた。 儀仗隊では反乱軍の進撃が予想される要路に地雷を設置して緊迫した時間を過ごしたが、まもなく第十四師団の参謀が日光に来着し、司令官命令が虚偽であることが判明したため、師団では動員を中止して平静に戻っていることを告げた。 これで儀仗隊の緊張は解けたのだが、皇太子を擁して徹底抗戦するという考え方は終戦直後の軍内部で広範囲に存在した。皇太子を狙っているのは宇都宮の師団だけではなかった。同時期、水戸教導航空通信師団でも奥日光に押し寄せようとする反乱の動きがあり、十九日には東京湾兵団参謀を名乗る二人の中佐が車で湯元に現れ、「軍では、終戦をすると仰せられる陛下にはご退位願い、皇太子を奉じて戦いを継続することになった」と徹底抗戦の命令に従うよう儀仗隊に迫った。 これらも実際の反乱軍の動きにはつながらず事なきを得た。問題は反乱を誘発した情報管理だった。戦時中、皇太子の疎開先は厳重に秘匿されていたはずで、報道も規制されていた。湯元からの人の往来、手紙なども憲兵隊にチェックされていた。しかし、皇室を守護する近衛師団はまだしも、反乱の動きを見せた宇都宮や水戸などの部隊も皇太子が日光にいることを知っていた。情報は筒抜けだったことになる。
影武者を差し出す?
徹底抗戦派の動きは収まったが、皇太子の身の安全はまだ安心できる状況ではなかった。終戦前にその侵攻に備えていた米軍への不安がまた頭をもたげてきたのだ。「玉音放送」翌日の十六日、米軍が本土に進駐してきた場合、皇太子を人質として本国へ連れ帰るという情報が憲兵隊から高杉に伝えられていたのだ。不確かな情報だが、高杉はあり得ることだと考え、田中と対策を練った。 そして、米軍が湯元にやってきて皇太子を拉致しようとした場合、終戦前と同様、同級生から選んだ身代わりの影武者を差し出し、皇太子をひそかに会津若松まで避難させることにした。しかし、あらかじめ湯元からの間道を斥候に調べさせたところ、自動車も馬も通行は無理であることがわかった。このため駕籠と徒歩を併用することにした。 この避難作戦を東宮職と学習院側に伝えたところ、西郷従達侍従が「学友をお身代わりに立てて苦境に立たせ、殿下のご安泰のみを図るということは、卑怯な行為として後世のそしりを受けるのではないか」と異議を唱えた。 西郷も終戦前の影武者作戦には同意していたはずだが、米国に拉致されるという運命はあまりに悲惨だと思ったのか。高杉は身代わりの学生にとっても名誉なことで世間も称賛する、日本人の国民性からも卑怯との批判はないと説得した。結局、高杉の説得に東宮職、学習院側も折れ、一人の身代わりが選ばれた。顔かたちは皇太子に似ていないが、成績が優秀で素直な、クラスの模範生として認められていた少年だったという。 しばらくしてこの拉致情報もデマと判明し、高杉の懸念は杞憂に終わったのだが、もしこのような作戦が実行されていたら皇太子の将来に大きな傷がついていただろう。高杉ら軍人の視野の狭さが露呈した作戦だった。ただ、皇統を守るためのなりふり構わない発想は高杉だけではなく軍全体が共有しているものだった。陸海軍は日光の皇太子、東宮職、儀仗隊があずかり知らないところで極秘の皇統維持作戦を進めていた。 皇族の北白川宮家に道久王という男児がいた。皇太子より四つ下の八歳だった。父の永久王は陸軍軍人だったが、飛行機事故により三十歳で歿した。祖父の成久王もパリで自動車事故に遭い三十五歳で早世。曾祖父の能久(よしひさ)親王は台湾征討中に四十八歳で病没した。道久王は明治天皇のひ孫にもあたる。陸軍は悲劇の宮家といわれていた北白川宮の若宮に目をつけた。 天皇は中国に流刑、皇族は全員死刑という噂が流れており、皇太子まで米国に拉致されれば皇統は完全に潰えてしまう。最悪に備え、「血統正しく目立たない」宮様として道久王を秘かにかくまう案が計画された。指令を受けたのは陸軍中野学校の組織だった。この時期、道久王は山梨県勝沼町に疎開していたが、東京からより遠い新潟県六日町に移すことが検討された。 一方、海軍でも宮内省と高松宮の同意を得て軍令部の富岡定俊作戦部長による皇統護持作戦が練られていた。かくまう皇族は確定しなかったが、逃避行先は九州とされた。作戦の実働部隊の責任者として真珠湾攻撃の航空参謀を務めた源田実大佐らが任じられた。かくまう対象は皇女の場合もありうるとされ、作戦期間は「無期限の覚悟」であった。 陸海軍の皇統護持作戦は、さながら足利幕府の追求を逃れる南朝勢力のような時代がかったものだったが、米軍が日本に進駐して一カ月足らずで皇太子拉致は杞憂と判明し、自然消滅していった。これらの作戦は、いざとなったら天皇、皇太子という「貝」を入れ替えても、皇統の「貝殻」を守ることが重要とする軍、いや大日本帝国の天皇観が露呈したものといえた。 当の皇太子はこれらの動きをもちろん知らない。終戦放送を聴いたあとの皇太子はどう過ごしていたのか。田中少佐の回想では、放送の翌日、田母沢御用邸などに分散配置されていた儀仗隊が抗戦派の進撃に備えて湯元に集結、総勢二百四十人が勢ぞろいして南間ホテルの庭に整列した。皇太子は東宮侍従らを従えてお立ち台に立った。田中少佐は「捧げ銃(ささげつつ)!」の号令をかけたが、涙があふれて声にならなかった。兵たちの間からも、うめくような声が聞こえた。 皇太子は挙手の礼を返した。ラッパ手が「君が代」を吹奏した。その音色は哀しく周囲の山々にこだまして吸い込まれていったという。ラッパの音が消えると、皇太子は手を下ろし、台を降りてホテル別館に戻っていった。皇太子の姿が見えなくなると、隊員らのなかから嗚咽の声が沸き起こった。 * 【つづき】「高校時代の上皇が「お忍びで会見」していた「意外な相手」…その会話の全貌がスゴかった」(9月11日公開)の記事では、その後の上皇の在り方に大きく影響を与えた、高校時代の出来事をご紹介します。
井上 亮(ジャーナリスト)