『朝まで生テレビ!』と共に歩んできた田原総一朗の成功の秘訣は「僕は才能がないと自認しているから、プライドもまったくないこと」
1964年に東京12チャンネル(現在のテレビ東京)に開局とともに入社し、1987年4月にスタートした『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)では、長年司会を務めてきた田原総一朗。11月3日(日)からはBS朝日にて毎週日曜日のゴールデンタイムに放送される予定だ。番組と共に歩んできた彼のTHE CHANGEとは──。【第1回/全2回】 ■【画像】『朝まで生テレビ!』と共に歩んできた田原総一朗、世界の未来を憂う真剣な表情 僕は大学を卒業して、すぐにジャーナリストになろうとしたけど、朝日新聞、TBS、NHK、ニッポン放送、全部、落ちたんですよ。そんなことがあったので、本当にコンプレックスの塊。僕にはまったく才能がないし、まったく能力がないことを自認している。だからこそ、いろんな意見をとことん聞きたい。それが、『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)での、基本的なスタンスです。 ただ、討論をする中で、ときどき頭に血がのぼって、感情的に言い争ってしまうこともある。ときどきじゃなくて……しょっちゅうかな(笑)。そんなことがあると、必ず娘に「番組では聞き役に徹しろ。自分の意見ばかりを言うな」と怒られてますよ。すぐに反省します。 1977年に東京12チャンネル(現在のテレビ東京)を辞めて、僕はフリーになったんです。そして、1987年に『朝まで生テレビ!』がスタートすることになる。その翌年の1988年に、僕は番組で昭和天皇の戦争責任を取り上げたいと考えた。当時のテレビでは完全にタブーとされているテーマ。テレビ朝日の編成局長は、「そんなことをやったら、局が潰れてしまう。絶対にやるな」と大反対だった。 そこで、新聞のラテ欄は、まったく関係のないタイトルにして、生放送の番組がスタートして20分くらいたったところで、「今日は昭和天皇の戦争責任についてやりたい」と話題を変え、討論を始めたんです。 パネリストには事前に事情を伝えて、大島渚、野坂昭如、西部邁、猪瀬直樹、舛添要一、石川好、野村秋介らに参加してもらいました。それぞれの立場から意見を言ってもらったから、番組に抗議はなかった。