みんな「キングメーカー」になりたがる 道長、秀吉…歴史を見れば一目瞭然の理由
「退陣」しても死ぬまで実権を握った藤原道長
こうした状況に対しては批判が多い。「脱派閥」を標榜した自民党だが、派閥から脱することなどまったくできていない。すべてはキングメーカーの座をねらう長老の思惑次第。長老支配にメスを入れるはずが、あまりに旧態依然――。総裁選の最中にそんな声が飛び交い、終了後も続いている。 しかし、三百数十人もの国会議員をかかえる政権与党において、派閥的な存在を失くすことも、いちど最高権力を握った人がそれを手放すことも、簡単にはできない。テレビのニュース番組が、「結局、自民党は変わっていない」と報じ、ワイドショーのコメンテーターがさらに厳しい声を重ねる。だが、人間が人間であるかぎり、自民党は変わらないのではないだろうか。 そのことは歴史を顧みても明らかである。たとえば、NHK大河ドラマ『光る君へ』で話題の平安王朝。ドラマを見ている人は実感できると思うが、藤原道長の長兄である道隆を祖とする「中関白家」の伊周らと道長の争いは、派閥抗争そのものであった。同じ一条天皇の後宮のなかで、皇后定子のサロンと中宮彰子のサロンが競い合ったのも、派閥同士の争いだったといえる。 そして道長は、絵に描いたようなキングメーカーであった。まず、文字どおりのキング、すなわち天皇をメークした。長兄の道隆の娘、定子が産んだ敦康親王を排除して、自身の長女である彰子が産んだ敦成親王を東宮(皇太子)にし、長和5年(1016)に即位させたのである(後一条天皇)。 こうして天皇の外祖父になると、念願の摂政に就任した。権威を背負うキングたる天皇のもとで、実験を握る事実上のキングになったわけだ。ところが、わずか1年で摂政の座を長男の頼通に譲ってしまう。権力欲が衰えたからではない。それどころか、道長はその後も万寿4年(1027)に没するまで、10年以上にわたって実権を握り続けた。 早々に摂政の座を長男に譲ったのは、後継体制を少しでも早く固めるため。人間、いちど経験した最高権力の味わいは、なかなか手放せないらしい。しかし、必ずしも称号は必要ない。むしろ、自分が摂政でいるよりも、摂政を動かせる立場にいるほうが、面倒な儀式から解放され、自由気ままに権力をふるえる。譲位した天皇が自身のもとに権力を集中させた院政も、こうしたキングメーカーによる政治の典型であった。