江川卓と高校時代に対戦した篠塚和典はショックを受けた「この球を打たないとプロには行けない」
作新学院時代の江川は、183センチの身長と"馬尻"と呼ばれた大きい尻が目立ち、高校生のなかにひとり大人が混じっている感じだった。かつて横浜高の監督を務めていた渡辺元智は、甲子園でいろいろな選手を見てきたが、そのなかで別格だった球児はふたりいたと話してくれたことがある。それが江川と、星稜の松井秀喜だった。まさに高校生離れした圧倒的な雰囲気を持っていたという。 江川の高校時代について、篠塚が半世紀前のことを感慨深く話す。 「高校1年の春に山梨で開催された関東大会準々決勝で作新と銚子商が対戦し、初めて江川さんの球を打席で見た時はショックでした。『こんな速いボールがあるのか......』っていう感覚でしたね」 それでも篠塚は2打席目で、センター前に落ちるヒットを放っている。1年生で江川の球をヒットにしたのは、篠塚が初めてだった。江川は篠塚とは理解していないまでも、スタメンに1年生がいることは知っていた。 篠塚にとって江川からの初ヒットは、運よくポトリと外野の前に落ちただけで、次に放ったヒットこそが正真正銘の当たりだと思っている。 「関東大会の時は、自分のタイミングで打とうとすると『ズドーン』と来たので、めちゃくちゃ詰まりました。この速い球を打たないと、プロには行けないなと思いましたね」 江川と篠塚の2度目の対戦は、作新学院のグラウンドで行なわれた練習試合。ダブルヘッダーの2試合目に江川は先発した。その試合で篠塚は見事にセンター前にヒットを放っている。尋常じゃない速さのストレートへのタイミングの取り方を、バッターボックス内で修正してアジャストしたのだ。 当時、高校球界の超名門だった銚子商に入学して、すぐにレギュラーを獲った篠塚。それだけでもすごいことなのに、江川に対して打席内で修正してヒットを放つなど、すでに才能の片鱗を見せつけていたわけだ。
【江川卓の入団時に一軍定着】 高校2年の秋から肋膜炎で半年間休んでいたにも関わらず、長嶋茂雄が首脳陣の反対を押し切ってドラフト1位で指名したのも頷ける。 巨人入団時はまだまだ体の線は細かったが、3年間みっちりファームで鍛えられ、1979年から一軍に定着した。その79年は江川が巨人に入団した年でもある。 「法政大時代の江川さんをテレビで見ましたけど、プロに来るんだったらあまり投げないほうがいいなと思っていました。あれだけの速い球を投げるピッチャーですから、やっぱり肩への負担は大きいはずなんです。絶対にプロに来ると思っていましたから、肩を壊さなきゃいいなと思っていました。 それで79年に江川さんが入ってくるんだけど、性格的にもワーワーするほうじゃないから......。マウンドでも表情を変えずに投げるピッチャーだったし、普段からそういう感じでしたね。入団の経緯にしても、別に江川さんが悪いわけじゃなく、そのへんはマスコミがいろいろ書きすぎたところもあっただろうし、プロの世界はしょうがないじゃないですか。トレードもあることだし。でも、あの時のドラフトから入団の様子を見ていて、我々も戸惑ったというか、『こういう形もあるんだ』って。そっちのほうが気になっていましたね」 篠塚はファームにいながらも、法政大時代の江川のことを知っていた。篠塚にとって、生まれて初めて手も足も出なかった真っすぐを投げる江川のことを気にならないわけがない。万全の状態でプロに来てほしいと願いながら、篠塚はファームで泥だらけになって練習に励んでいたのだ。 江川は、1978年にクラウンライターの1位指名を拒否し浪人。翌年、「空白の一日」で巨人と電撃契約したことで大騒ぎとなり、最終的に交渉権を持っていた阪神とのトレードという形で巨人に入団。だが、春季キャンプの参加禁止、開幕2カ月間は一軍帯同自粛というペナルティーが課せられ、一軍に合流したのは6月だった。