有村架純、『海のはじまり』で極まる柔軟な芝居 弥生の“生きている”という感触を体現
夏(目黒蓮)と弥生(有村架純)の別れの場面に感じた“既視感”
とはいえ、これについて具体的な弥生の振る舞いや描写を挙げるのは難しい。視線の動きというよりは瞳の色の濃淡、声のトーンというよりは言葉を発する際の呼吸のリズムなどに、その繊細な“違い=変化”が表れているように感じていたからだ。 独りでいるときの弥生と誰かといるときの弥生は、ひとりの人物として一貫していながら、圧倒的に異なる存在だろう。置かれている環境こそ違えど、私は彼女に見覚えがある。身に覚えがある。私たちは弥生の姿に、ごく身近な誰かを重ねなかっただろうか。あるいはそれは、私やあなた自身かもしれない。つまり彼女は真の意味で、“生きている”のである。 “もうひとりのヒロイン”ともいえる南雲水季は、夏の記憶の中では掴みどころのない、自由奔放な女性だ。演じる古川のパフォーマンスにも大胆なところがある。これに対して有村がリアリスティックな演技に徹して弥生の人生を生きることで、対照的な水季の存在は際立ち、彼女の生も輝いて映っているのではないだろうか。 『海のはじまり』における有村架純には、主演の目黒蓮と同様に、分かりやすい役割が与えられているわけではない。物語の中心人物でありながら、置かれた状況や他者との関わりの中で、その立ち位置は変わり続けてきた。これは非常に難しい役どころだと思う。なぜなら、物語を牽引する者として確たる作品の軸となりながら、同時に柔軟な存在でもあり続けなければならないからだ。 これが回を重ねるごとに極まった結果、弥生が真の意味で“生きている”と感じられる次元にまで有村のパフォーマンスは到達した。第9話の夏と弥生の別れの場面は、エンターテインメント作品らしいドラマティックなものでありながら、多くの者にとって見覚えがある、身に覚えがあるものだったのではないだろうか。さまざまな制約がある中で成立させなくてはならないドラマの現場で、“有村架純=百瀬弥生”の生命が輝いているからにほかならない。
折田侑駿