1988年の上海列車事故、難航した補償交渉の経緯を著書に
同年3月、遺族らが出席して高知市内で交渉の調印式があり、岡村さんは「どこの国の法律で裁くかという難しい問題は棚上げにした。子を亡くした親の気持ちは万国共通だから、その立場で議論をしようと提案し、中国側も同意してくれた」と述べた。
1年近くの交渉で、中国側の窓口は上海鉄路局でも、実質は北京政府が相手。それに一人立ち向かった岡村さんは「国境を超えた前例のない、難しい交渉だった。最後は孔副局長との信頼関係が妥結に至った」と振り返る。
著書は交渉の記録を基にパソコンに向かって書き続け、自費出版した。「私の60年以上の弁護士生活で最も印象に残っている。孔副局長をはじめ関係者の多くは亡くなった。両国間の記録として残しておかないといけない」と話している。
◆上海列車事故=1988年3月24日、修学旅行中の高知学芸高1年生が乗った列車が上海市郊外で別の列車と正面衝突。生徒27人と教諭1人が死亡した。上海鉄路局は事故原因を運転士の信号無視と断定した。