【ある極右政治家の死】マリーヌ・ルペンの父、ジャンマリー・ルペンが遺したもの、今や大統領の座も狙う極右政党の礎を築いた生き様
ここ数年入院するたびに、その死亡説が流れていたジャンマリー・ルペンが1月7日、心臓発作による合併症で96歳の寿命を全うした。その極端な差別的発言で人心をかく乱し、政争の的となり続けてきた、極右の大物政治家の大往生だった。 筆者がルペンを初めてみたのは1970年代末にパリのチュルリー公園での同党の集会の時だった。百人に満たない少人数の聴衆の前で、ルペンは「外国人排斥、有色人種の追放」を訴えていた。パラシュート部隊の格好をした青年たちが鋭い目つきで集会を警護するかのように取り巻き、疑似的な危機空間が演出されていた。 演壇の最前列でカメラを構えていた筆者だったが、演説の声が耳に入るにつれて、無意識に後退していたのか、気が付いたら公園の出口付近にいた。撮った写真は講演会場の遠景になっていた。 ルペンの周辺には「白人」しか見当たらなかった。筆者がルペンの攻撃する有色人種であることは一目瞭然だった。 筆者が初めてルペンの集会に参加した時から50年近くが過ぎた。今日のルペン率いる極右勢力の躍進は、とても予想できなかった。その意味ではジャンマリー・ルペンの死は筆者にとってもきわめて感慨深く、複雑だ。 筆者は1980年代半ばから大統領選挙をはじめ主要なすべての選挙や国民投票を(2022年大統領選挙以外の)現地で視察し、主だった政党の投票前の大集会にもすべて参加してきた。その間ルペンの排外主義を前面に出した政治的言動は多くのフランス国民の怨嗟の的となっていた。 死亡の翌日早速反対派がルペン死亡の祝賀集会をバリで開催したが、それは父ルペンが反社会的な対抗勢力としての存在感を長い間誇示してきた証拠でもあった。「ナチスのガス室は歴史の些事」と述べたり、ユダヤ人の墓を掘り起こした事件の張本人とみられたり、その排外主義的言動には枚挙にいとまがない。 しかしそれにもかかわらず、その人物が主導した政治勢力が今や大統領の椅子を狙おうとしている。公然と選挙を通してである。それは三女マリーヌ・ルペンが女性ながら党首を引き継ぎ党の印象が和らいだということだけで説明することができるであろうか。彼女が引き継いだ土台があったからこそだ。 極右勢力の台頭はもはや欧州各国内政治問題に限定されない。欧州全体に拡大した大きなテーマだ。そこには欧州で極右ピュリズムが拡大するだけの共通の時代的背景と思想・論理がある。ルペンの死を契機に、極右勢力拡大の真実に迫ってみる。このジャンマリー・ルペンという人物はどんな政治家だったのか。今回のテーマだ。